人間
朝日新聞への投書 私は、1955年高校三年生の時から大学山岳部時代まで、山行を山日記に記録していた。今は古びた山日記、そこに私は朝日新聞「天声人語」の切り抜きを一片はさんでいた。それは黄色く変色し、活字は驚くほど小さい。1字が7ポイントほどだ。…
「ゴッホ 星への旅 上下巻」藤村信著(岩波新書)、<昨日の続き> ゴッホ(ヴァンサン)は、麦秋の海の中で、人知れず死を全うしたかった。夕べに麦畑のなかに倒れて、だれにも見出されずに、大自然に埋もれたかった。天上の星へ行き、星になりたかった。 …
芋ほり 野坂昭如は、「しぶとく生きろ」を書いた。その一部を要約。 「昭和16年春、妹の紀久子ができた。もらわれてきたのだ。ぼくも養子、それを知らなかった。 ぼくは妹をかわいがった。四六時中おんぶし、あやしていた。おむつを替え、子守唄を歌った。そ…
つるべ(釣瓶)という水汲み道具があった。 私が小学生の頃、母方の祖父母の家に行くと、水は井戸からつるべ(釣瓶)でくんでいた。井戸は台所の中にあり、その水で生活のすべてをまかなっていた。 つるべにはロープの一端がくくりつけられていた。水を汲む…
今朝の朝日新聞社説「もう議員の資格はない」 札幌法務局が人権侵犯に当たると認定した自民党国会議員・杉田水脈の発言、朝日の社説記事は、「議員の資格はない」と告発している。 次のような趣旨である。 国連の会議に日本から参加した人たちを、『チマチョ…
妹とし子は臨終のとき、賢治につぶやく。 「Ora Orade Shitori egumo」 「無声慟哭」のなかの宮沢賢治の絶唱「永訣の朝」。 ほんとうにけふ おまへはわかれてしまふ ああ あのとざされた病室の くらいびやうぶや かやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる …
雨の全く降らない日が続き、庭の畑の水やりが朝夕大変だ。田んぼに水を送る水路が道の脇を流れている。そこへ一輪車を押していき、大きな容器にバケツで水をくみ入れて、運んでくる。畑に戻ると小型バケツに入れ替え、ナス、キュウリ、ゴーヤ、ピーマン、イ…
バートランドラッセルとアインシュタインが共同で出した声明、1955年、その一部。 「厳しく、恐ろしく、そして避けることのできない問題、それは、我々が人類に終末をもたらすのか、それとも人類が戦争を放棄するのか、という問題である。あまりに難しいので…
子どもにとって戦争は、逃れようのない恐ろしい苦痛、恐怖、悲嘆の世界である。 第二次世界大戦の末期、満蒙開拓団の「満州」からの逃避行、子どもは邪魔になる、危険だと、命を奪われたり、捨てられたりすることがあった。沖縄戦でも同じようなことがあった…
プーチンが、核兵器の使用をにおわせてきたということは、その使用があり得るということである。 1999年、20世紀最後の年に、読売新聞社は「20世紀 どんな時代であったのか 戦争偏・日本の戦争」という書を出版した。そこにソ連時代の核兵器開発とその後の歴…
1950年代後半ごろ、日本は登山ブームで湧いていた。ぼくは大学山岳部員で、大学が夏休みに入ると、毎年、穂高岳山群や剣岳山群で 一週間合宿し、続いて北アルプスを縦走した。登山計画は、お盆の前後は列車も山も混むから避けていた。 ところが8月10日過ぎて…
今朝も暑い。午前4時頃起きて、畑の水やりをした。畑の作物も庭の木々も水を求めている。 午前8時、ヒロシマ原爆慰霊、平和式典のテレビ中継を見ながら、西南西の方角に黙とうをささげた。長年続けてきた行為だが、今朝は中継を観ながら感じるものがあった。…
屋久島の森には、樹齢五千年、六千年と推定される老杉が自生している。縄文杉は七千二百年と推定されている。三省は、この杉を「聖老人」と呼んだ。 屋久島の森を営林局は伐採してきた。残った縄文杉をどう守るか、これが三省の大きな目的になった。それはこ…
山尾三省は詩を書いた。 「国(くに)」ではなく「郷(くに)」と書いた。 「びろう葉帽子の下で」、その十八 びろう葉帽子の下で 絶望という言葉を みだりに使ってはならない 絶望とは まさしく 死に至る病にほかならぬのだから びろう葉帽子の下で 何万年…
1960年代から、山尾三省(詩人・思想実践家)は屋久島の廃村に住んで、次々と著作を世に出した。彼の本に魅せられ、吸い寄せられたぼくはそのほとんどを読んだ。彼は「部族」というコミューンづくりを描いていた。 「全世界をおおいつくしている中央集権的な…
「これはポグロムの、“けしかけ”じゃないか。なんで、誰ひとり、このことを言わないのか。」 1972年、テレビ中継を見ていた中野重治がこう思った。 テレビは番組を変更して、長時間にわたって実況中継した。事件は浅間山荘事件、「連合赤軍」を名乗る者たち…
ボブディランの「風に吹かれて」を聴きたくなった。 しみじみと切ない思いで、歌を聴いた。 世界のあっちでもこっちでも、殺し合いが起きている。奪い合いが起きている。 ぼくは今、緑の野の風を感じている。 人間という生き物を想いながら、ボブディランの…
灰谷健次郎が、正村公宏夫妻著「ダウン症の子を持って」を読んだ時の感動を書いていた。ずいぶん前の著書だけれど、その中の一文をここに書く。 「私(妻)が居間で本を読んでいると、彼(ダウン症の子)の部屋から、すすり泣きの声が聞こえてきました。初め…
「明治44年、慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、市ヶ谷の通りで、囚人馬車が5、6台も日比谷の裁判所の方へ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件で、この折ほど言うに言われぬ、いやな心持のしたことはなかった。わたしは文…
大逆事件は、無実の罪で24名が死刑に処された明治時代の大事件。 詩人佐藤春夫は明治44年、同郷の医師が、でっち上げられた罪で処刑されたことを哀しみ、皮肉と怒りを秘めて、慟哭の詩を詠んだ。 愚者の死 1911年1月23日 大石誠之助は殺されたり げに厳粛な…
石井誠士(哲学者)の「モーツァルト 愛と創造」から。 「モーツァルトは絶えず旅をし、世界に自分を投げ出し、異質なものとぶつかりあった。モーツァルトほど、いろんな作曲家から多くのことを学んだ人がいるだろうか。彼は学ぶことの天才であった。真に創造…
シモーヌ・ヴェ―ユというフランス人女性の思想家がいた。 ヴェ―ユの戦争観に注目し、高く評価したのは吉本隆明だった。ヴェ―ユの考えとは? 第一次世界大戦で敗れたドイツは飢餓と貧困に陥り、ドイツ労働者の運動が台頭してくる。そこへヒトラーのナチスが拡…
大江健三郎が「新しい人」という言葉に出会ったのは、「新約聖書」の中の、「エフェソの信徒への手紙」だったという。 キリストは、自身の肉体を十字架にかけられることによって、対立してきた二つのものを、一つの「新しい人」につくりあげ、そして敵意を滅…
「もし若者が知っていたら! もし老人が行えたら!」、大江健三郎は自らの学生時代のことを、著作「『新しい人』の方へ」で書いている。 「私が教えを受けたフランス文学者渡辺一夫は言った。日本社会は、40代から60代ぐらいの男性によって動かされている。…
木 田村隆一 木は黙っている 木は歩いたり走ったりしない 木は愛とか正義とかわめかない ほんとにそうか ほんとにそうなのか 木はささやいているのだ ゆったりと静かな声で 木は歩いているのだ 空に向かって 木は稲妻の如く 走っているのだ 地の下へ 木はた…
わが友、ランがいたとき その影 黒田三郎の詩(一部抜粋) 死の中にいると ぼくらは数でしかなかった 死はどこにでもあった 死があちこちにいる中で ぼくらは水を飲み 襟の汚れたシャツを着て 笑い声を立てたりしていた 死は異様なお客ではなく 仲の良い友人…
これが日本人の破壊的感覚。 「いのちのうた」つづき 雨田氏は、障がい者の共同作業所から、ハープの演奏を依頼され、出かける準備をしていた。迎えに来てくれたのは、共同作業所の指導員と障がいをもつ青年だった。青年は、ハマダハープアンサンブルがレッ…
ハープ(竪琴)の演奏家であり、筝曲家でもあった雨田光平が、ロンドンでの体験したこと。それを、息子の光示氏が聞いて、著書「いのちのうた」に書いている。 「昭和の初め、父が留学していた時のことです。」 父は大英博物館に毎日通っていた。その帰り道…
歌集 「小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵」(岩波書店)を読んだ時の深い感動を忘れない。ロシアによるウクライナ侵攻をニュースで見るにつけ、今読み返しては感動を新たにする。 かつてアジア太平洋戦争で中国に侵略した日本軍は、国際法で禁じられている捕虜…
深沢紅子(1904年生)という画家が、「追憶の詩人たち」という随筆を1979年に出版していたが、そのなかに「一ぱいの水」というのがある。こういうあらすじだ。 昭和6年、暑い夏の真昼、武蔵野の私の家に、白い麻の服を着た人がやってきた。 「宮沢ですが、お…