「もし若者が知っていたら! もし老人が行えたら!」、大江健三郎は自らの学生時代のことを、著作「『新しい人』の方へ」で書いている。
「私が教えを受けたフランス文学者渡辺一夫は言った。日本社会は、40代から60代ぐらいの男性によって動かされている。金力・権力の支配する世の中になると破滅を招来すると。
実際に、国会で決められて行く法律は、準アウトサイダー(子ども、女性、若者、老人)を除いた、40代から60代ぐらいの男性によってつくられている。自衛隊が戦争に参加するために米軍と協力していく準備のための法律も。渡辺一夫はそれを災禍の準備と呼び、災禍は準アウトサイダー(子ども、女性、若者、老人)に及ぶと言った。」
大江は子どもや若者に語りかける。
「もし若者が知っていたら、女性や老人が行えたら、政治が変わるだろう。私たちが自分たちの生きている社会、世界について、本当のことを知り、よい方向にそれを向けていけるようにしたい。
日本の小説家に何ができるかと、笑う人がいるだろう。
『カラマーゾフの兄弟』のなかで、アリョーシャが叫ぶ。
『ぼくは、世界のすべての人のために苦しみたい。』
この少年の叫びはおかしいことはおかしい。それでも、子どもに何ができると、せせら笑うことが正しいだろうか。笑われてもいいと、勇気を出して、自分は世界の人のために苦しみたいという子どもがいることに希望がある。
私には障害を持った子、光がいる。光は私の家庭の中心。私の仕事は、光との共存がなければ成り立たなかった。光との共存がもたらしたのは、充実と希望だった。」
大江の言葉を僕が書いている時、一つの文章に出会った。「こころの湯」という、北京が舞台の映画への日本人の感想文だった。
変わりゆく中国、北京の下町、風呂屋のオヤジには息子が二人おり、長男は香港でバリバリ働く。次男は障害があり、父の手伝いをしている。そこへ開発の波が押し寄せる。
下町には「こおろぎ相撲」に興じる老人たちがいた。「こおろぎは大地の気を離れては生きていけない」と、老人たちは銭湯で話に花を咲かせた。だが、発展を求める中国の街からは、交わりと癒しの銭湯も消えていく。歴史に翻弄され、こおろぎ相撲の文化も消えていく。
感想文は、この映画の描こうとしていている意味について、洞察していた。
北京には胡同(フートン)という街があった。細い路地が迷路のように連なり、そこに200万人が暮らし、さまざまな文化を育んできた。2004年、ぼくが北京で暮らしたとき、フートンはまだ生き残っていた。その後、それは再開発のうねりのなかで消えていった。2008年、北京オリンピックが開催された。
北京は、巨大な現代都市となり、中国は強大な武力国家となった。
庶民の癒しの場はどうなっただろう。
超大国は、世界を変えていく。
いったん火を噴いた巨大権力国家、ロシアによる侵略戦争は、ウクライナの街も庶民も破壊し、殺戮を続けている。