野坂昭如の遺言

                        芋ほり

 

 

 

 野坂昭如は、「しぶとく生きろ」を書いた。その一部を要約。

 

 「昭和16年春、妹の紀久子ができた。もらわれてきたのだ。ぼくも養子、それを知らなかった。

 ぼくは妹をかわいがった。四六時中おんぶし、あやしていた。おむつを替え、子守唄を歌った。その妹が秋に死んだ。たった8ヶ月の命だった。

 昭和19年春、養父母は二人目の養女を迎えた。名は、恵子。ぼくは中学二年、14歳。空襲は激しくなり、ぼくは恵子と防空壕で夜を過ごした。6月5日、大空襲は神戸を焼き尽くした。養父は死に、養母は大やけど、ぼくと恵子は焼け跡に残された。

 6月21日、夏至が過ぎたころだった。二人がいた場所は貯水池と小川があり、夜には無数のホタルが飛びかっていた。

 敗戦から一週間後、8月21日、妹は生きていた。恵子は一歳四カ月。背負っても、重さを感じなかった。ぼくは無我夢中だった。恵子のおしめを池で洗って樹の枝にかけて乾かした。夜寝る時は子守唄を歌った。食べ物は、おかゆ、おじや、赤ん坊にふさわしいものは何もなかった。おかゆ、おじやの汁を恵子に飲ませた。妹は骨と皮にやせ衰えた。薪を拾いに行って帰ってくると、妹は死んでいた。ぼくは妹を抱きかかえて医者に行った。ぼくは妹を火葬した。

 

 あの時、こうしていれば、ああしていればと、65年経っても、せんかたなきことを思い続けている。

 2010年、クラスター爆弾禁止条約が発効になった。署名国107か国、批准国38か国。クラスター爆弾はたちが悪い。被害者のほとんどの人は一般人となる。命が助かっても、足、腕をもぎとられる。あらゆる場所に子爆弾が残る。除去するのはとても危険で、とてつもない手間と金がかかる。クラスター爆弾を多く所有しているのはアメリカとロシア、この二国は条約にサインしていない。

 戦争の残酷さ、無意味さを伝えるために、加害と被害を語り継がねばならない。人間は、いかに弱く、もろく、残酷か、子どもたちに伝える義務がある。」

                   「『しぶとく生きろ』 野坂昭如