ナチスと闘ったノルウェー教員組合の教師たち

 

 「ナチスと闘った教師たち ノルウェーへの旅」という、研究探訪記がある。私の全く知らなかった、驚くべきノルウェー史だった。ノルウェー教員組合の教師たちは、仮借ない弾圧に抗して、反ナチズムの闘いを行ったのだ。

 ドイツ政治思想史の研究家であった宮田光雄氏は、1986年に「アウシュビッツで考えたこと」(みすず書房)という書を出している。「ナチスと闘った教師たち ノルウェーへの旅」はその中にあり、今の世界、今の日本の教育を考えるための資料ともなる。

 要約してみよう。

       ☆          ☆         ☆

 1983年夏、私(宮田)はノルウェー北辺のキルケネスを訪ねた。北極海にのぞむ人口一万人の港町だ。そこは、反ナチズムの、市民による抵抗運動の地であったことは、一般には知られていない。

 1940年4月、ヒトラーナチス軍は、突如ノルウェーに侵攻し、傀儡政権をつくった。首相はクビスリング。彼はファシズム的な国家改造を企て、第一歩として教育統制に着手した。政党、議会を解散し、続いて10歳から18歳までの男女を、ナチ的青少年奉仕団に統合した。さらにすべての教員に、ナチ的教員組織に加入して、ナチ的教育をするように命じた。

 これに対して、ノルウェーの教員たちは強い抵抗を示した。すると政権は、教員全員にナチズムに対する忠誠署名を強いた。それに対して、ノルウェイ教員組合は、全組合員に、次のような文書を政権に送ることを求めた。

 「私はここに教師としての天職と、自らの良心とに忠誠を誓い、今後も従来と同様の勤務を遂行することを声明します。」

 この反対行動は、ナチズムへの忠誠署名を行う計画を阻止した。

 9月、オスロで秘密会合がもたれ、ドイツ問題に関する多数の専門家が出席した。彼らはナチスドイツの教育目的と方法をよく知っていた。ナチスの教育政策をいかにして阻止するか、その論議の中で明らかになったのは、ドイツでは多くの教員に市民的勇気が欠けていたこと、それが原因でファシズムに対する抵抗をなしえなかったことだった。そしてわれわれが生存のためには財政的保護が必要であり、経済的支援の組織と制度をつくること、そのために給料の40パーセントを救援する基金カンパを行うことを決めた。

 オスロ会議は、抵抗策を考えた。それには機能的なコミュニケーションを確保し、客観的に正確な情報を伝達しなければならない。すでに新聞はナチの検閲を受けていた。抵抗運動の情報を迅速に伝えるにはネットワークが必要である。傀儡政権が教育統制を実行する前に、それを整えること、さらに教員たちに必要なのは、抵抗する時の心理的な準備を行うことだった。こうして闘いの準備がなされた。

 ナチスプロパガンダの集会は盛んに行われた。だがそこには誰も参加しない状態が、生まれた。やむを得ず参加せざるをえなかった集会で、誰かが咳きこむと、咳が会場全体に広がっていき、大きな連帯感が生まれるという一幕もあった。

 1941年、ノルウェー教員組合はドイツ占領軍の管理下に置かれ、非合法になった。そこで教員組合は抵抗方針を決めた。

 (1) ナチへの忠誠を拒否する声明を出す。

 (2) 学校でのナチス宣伝を拒否する。

 (3) 権限のない組織からの命令には従わない。

 (4) ナチス青少年組織への協力を拒否する。

 教師たちへの弾圧から教師を守るために、教育大学の学生たちも抵抗した。ナチの傀儡政権の教員になることを、教員志望の学生たちは拒否した。それに対して傀儡政権の首相クビスリングは、教師たちを強制的に組織する教員組合法を施行した。そこで教員たちが行ったのは、一人一人署名入りで、拒否と抗議の意志を示す手紙を出すことだった。傀儡政権の首相は、政権に従わない教員たちを免職にし、給料不払いを行い、強制労働などの脅しで警告した。しかし教員たちはそれにひるまず、職場にとどまって授業を続けた。ついに教育省は、すべての学校を閉鎖する通知を出した。

 このような抵抗の背後には国民の支えがあった。父母たちはこぞって教育省に署名入りで手紙を送った。

 「自分の子どもがナチ的教育に参加させられることは、私たちの良心に反する。」

 この抗議に参加した父母は20万人に達した。郵便配達夫は、抗議の手紙の入った郵便袋を重そうに、しかし微笑しながら教育省へ運んだ。

 ドイツ軍の管理官は、教師の逮捕に踏み切った。かくしてオスロ北方の強制収容所に千名以上の教師が送りこまれた。ノルウェイ教会の牧師たちは弾圧に抗議して、ほとんど全員が辞職した。

 政権は学校を再開するために方針を変え、教員の新しい組織をつくり、教師が給料を受け取れば、その組織に加入したものとみなすという通達を出した。しかし、教師たちはこのやり方も拒否し、学校が再開された日に、教室で声明を読み上げた。

 「教師の職業は、子どもたちに知識を与えるだけのものではなく、生徒たちに真実と正義を支持するように教えることである。それ故に教師は、自己の天職を裏切らず、良心に反することは教えることはできない。」

 首相のクビスリングは、教育相や警察幹部を引き連れて、学校に乗り込み、全教員を逮捕し、強制収容所に送った。収容所の生活は厳しかった。雪の中での拷問、作業。教員たちはそれでも屈服しなかった。そのうちの500人は、家畜用貨車に乗せられ、ノルウェイ北部の北極圏に運ばれ、12時間労働を強いられた。病める者が続出した。

 冬が来た。零下20度を下がる日が続いた。この抵抗に、首相は動揺した。かくして教師たちは屈服することなく、生還を勝ち得たのだった。生還した教師たちは、国民的な英雄として迎え入れられた。

 そしてナチスは滅んだ。

 

 ノルウェー教員組合の抵抗の闘いが行なわれていた時、日本の学校は、教員もろとも完全に日本軍国主義支配下にあった。学校も教員も国家統制され、学徒出陣で、学生もぞくぞくと戦場に送られた。

 一方ヨーロッパでは、ナチス・ドイツは敗北。

 つづいて日本も敗北。

 敗戦数カ月後、焼け跡の中から立ち上がったのは教員たちだった。日本教職員組合日教組)の結成大会が開かれた。そうして「日教組不滅のスローガン」と呼ばれる言葉が掲げられた。

 「教え子を再び戦場に送るな!」

 そのスローガンのもとになったのは、多くの教え子を戦場に送り出してきた教師たちの罪、悔恨だった。「不滅のスローガン」の元になったのは、高知県の中学校教員の詩であった。

 

  逝いて還らぬ 教え子よ。 

  私の手は 血まみれだ。

  君を縊(くび)った その綱の、

  端を私も持っていた。

  しかも人の子の師の名において。

  ああ、お互い だまされていたの言い訳が

  なんでできよう。

  ‥‥‥

  逝った君はもう帰らない。

  今ぞ私は汚濁の手をすすぎ、

  涙をはらって 君の墓標に誓う。

  繰り返さぬぞ 絶対に!

 

 

 「ファシズムも、戦争も、ある日、突然、天から降ってくるわけではない。私たちの周辺でも、動きがある。すでに日常的ファシズムの芽が育まれているのではないか。」    

           「アウシュビッツで考えたこと」宮田光