ヒロシマ原爆慰霊、平和式典に思う

 

 今朝も暑い。午前4時頃起きて、畑の水やりをした。畑の作物も庭の木々も水を求めている。

 午前8時、ヒロシマ原爆慰霊、平和式典のテレビ中継を見ながら、西南西の方角に黙とうをささげた。長年続けてきた行為だが、今朝は中継を観ながら感じるものがあった。広島県知事と国連事務総長グテーレス(代読)の慰霊の言葉と意見発表は特に心に響いた。最後の、子どもたちによる平和の歌の合奏・合唱には涙が出た。

 

 1976年、埴谷雄高は、「薄明のなかの思想 宇宙論的人間論」を著した。その中の一文。

 「愛を基本原則としている宗教による大量虐殺を、残念な思いに充たされながら取り上げてみよう。

 私たちの歴史における大量殺戮の柱は、国家と宗教に寄るものにほかならない。数多くの血なまぐさい歴史の中で、最もがっかりした事件は、サン・バルテルミーの虐殺であり、それはカトリック教徒によるプロテスタント教徒殺戮で、フランス全土で5万人が殺されたという。その報せが届いたとき、ローマ法王歓喜したと伝えられている。私は、「愛の代表者」法王の内心を見せつけられた時、人間、この救いようのないもの、という固定観念をいよいよ堅固にした。

 自分は、愛に徹しているとか、自分は正しいとか、と思っている者はまことに恐ろしい。

 宗教、国家、革命などに共通する、その裏切りの陰の部分は、表側がこのうえなく見事らしく振舞っているだけに、なおさら底のない深淵のなかに沈み込んでいて、おそろしい。本人の自覚のない悪を、さながら善のごとく行うもの、人間。

 私の宗教嫌いは、教団を持つに至った宗教への反発である。個人としては、深い愛の人間もいるし、イエスも釈迦も感心するけれど、教団をつくるとやばくなる。

 ドストエフスキーは、眼の前にいる『 顔を持った』アンナを愛し続けながら、人類を徹底的に弾劾し続けた。私たちは今なお、この『個人と全体』『愛の具体性と抽象性』の矛盾するドストエフスキーの苦悩の位置に置かれている。」

 

 「国」という大集団が生まれると、そこに「権力」が生まれ、生活のみならず、人々の生殺与奪をも、権力者が握るようになった。今やそれだけではない。この地球の運命まで、暴走人間が左右するようになってしまった。

 グレタ・トゥンベリさんの上げた声は、どうなってしまったのか。