大江健三郎が「新しい人」という言葉に出会ったのは、「新約聖書」の中の、「エフェソの信徒への手紙」だったという。
キリストは、自身の肉体を十字架にかけられることによって、対立してきた二つのものを、一つの「新しい人」につくりあげ、そして敵意を滅ぼし、和解を達成されたのだ、と。
「私は、対立のなかにある二つの間に、本当の和解をもたらす人として『新しい人』を思い描いているのです。今、私らの生きている世界に和解を創り出す『新しい人』になろうと生き続けていく人、自分の子どもや次の世代にまで『新しい人』のイメージを手渡し続けて、その実現の望みを失わない人を、私は思い描いているのです。
「エフェソの信徒への手紙」は、キリストの教えの信徒と、そうでない人たちとが一緒にいる土地(ユダヤ民族と別の民族が対立して、互いに敵意を燃やしている土地)で、どのようにキリストの教えを広めてゆくか、そのことをパウロが説いている手紙です。パウロはそれに反対する人々にとらえられ、処刑されてしまいます。パウロは、キリストの教えを弾圧する立場に居たユダヤ教の学者でありましたが、一転してキリスト教徒になった人です。
私は、聖書についての知識は浅いので、キリストが十字架にかけられて死ぬことで、対立する二つを自分の肉体を通じて『新しい人』につくりあげ、和解をもたらしたということについて、納得してもらえるように話すことはできないけれど、十字架上で死なれて、『新しい人』になられ、よみがえられたということを、人間の歴史で何より大切に思っています。」
大江さんはこのように書いている。
キリストの復活の話は信仰のための話に過ぎないのだろうか。二千年以上も昔、なぜそういう復活の奇跡が生まれたのか。
大江さんは、「新しい人」になるための教育の重要さを言う。それは、延々と続いてきて、今もなお対立し、殺し合い、憎み合う者たちが絶えない人間社会に、「新しい人」の到来を願うからだ。
「汝 殺すな」という教えを知りながら、人類は侵略戦争を続けてきた。「汝 殺すな」という教えを説くキリスト正教会の神父が侵略者の大統領に寄り添っている現実をロシアに見る。キリスト者であっても、和解を求めず、人を殺す動きに加担する。
大江さんはなぜ「新しい人」という言葉を言ったのか。2000年の戦乱の歴史を経ても続く人間社会の現実。だからこそ和解を創り出す「新しい人」の誕生を、「教育」に大江さんは求めていた。
されば、この場合の「教育」とはどんな教育なのか。