深沢紅子(1904年生)という画家が、「追憶の詩人たち」という随筆を1979年に出版していたが、そのなかに「一ぱいの水」というのがある。こういうあらすじだ。
昭和6年、暑い夏の真昼、武蔵野の私の家に、白い麻の服を着た人がやってきた。
「宮沢ですが、お隣の菊池さんがお留守ですから、これをあずかってください」
そう言って新聞紙に包んだ包みを二個さしだされた。お隣の菊池さんは、岩手出身の画家で、賢治の童話「注文の多い料理店」の、さし絵を描いた人だった。宮沢さんは賢治だったのだ。その時、賢治の頬は少し赤く見えた。私は、暑さのためだろうと思い、
「お上がりになって少しお休みください」
と言うと、賢治は玄関に立ったままで、
「水を一ぱいいただければ」
とおっしゃったから、私はコップの水を差しだすと、賢治はごくごく飲み干し、帰って行かれた。
夕方帰ってこられた菊池さんに包みを渡すと、小さい包みの中から江戸時代の絵草紙、大きい方からは大盤のレコードが出てきた。
菊池さんは、
「なんで俺に、こんなものをくれたんだべなあ、」
と独り言を言って、ともかくそのレコードを聴くことになった。
菊池紅子も盛岡出身だった。
「私は賢治より8年遅れて盛岡で生まれました。岩手山は美しく、凍り付く冬はギンガギンガと輝き、言いようもなく荘厳でした。賢治は夏も冬も、岩手山を眺めたに違いありません。」