大川小学校の悲劇を考え続ける

 

 1946年、敗戦の翌年、文部省は、戦前の政府による教育支配を反省し、次のような新しい教育指針を出した。

 「軍国主義や極端な国家主義の国においては、教育もまた戦争の手段とされてきた。日本は、平和的文化国家になって、教育は本道にかえったのだから、教育は誰にも束縛されることなく、自由にその本分に力をつくすことができる。」

 戦後の貧困と混乱のなかであったが、教育に希望を託し、全国で創造的な教育が始まった。無著成恭の「山びこ学校」はその一つだった。語り合う、作文に書く。金がない貧乏学校だから、自分たちで金を稼いで、学校に不足しているものを補う。親が亡くなった子を、友だちが支援して一緒に働く。

 だが、朝鮮戦争が勃発し、日本は朝鮮戦争の米軍基地となった。日本の政治は、教育の国家統制を強めていった。戦後生まれた日本教職員組合は、戦争に加担し、教え子を戦場に送った罪を懺悔して、「教え子を再び戦場に送るな」という不滅のスローガンを掲げた。

 どんな学校を創るのか、民間教育団体が次々と生まれた。民主主義教育を模索し、日教組の全国教育研究集会は全国津々浦々、所を変えながら、毎年開かれることとなった。

 群馬県僻地の島小学校の教育実践が注目を浴びた。斎藤喜博群馬県教組の役員だったが、自治体から推薦されて校長になり、生き生きと歌い学ぶ歓喜の学校を児童と教員でつくりあげていった。

 だが、それから後、政府の教育統制は次々と手を打たれ、教育委員、学校長は任命制になり、教員への勤務評定が制度化され、任命による主任制が敷かれ、主任手当てが出された。

 それから年月が過ぎて、学校を拒否する子どもが出てきた。私の見てきた学校現場は、職員会議でも討論がほとんど無かった。教育実践も教育観も感じられない人が管理職になっていた。

 かつて竹内敏晴(宮城教育大学教授)は、述べていた。

 「学ぼうとするものに向かって語りかけ、相手と触れ合い、対話し、心の内に何ごとかを起こすこと、これが本来教えることだと思う。教師が語りかけることを知らない、語りかけることができないとすれば、文化としての言葉は死滅する。教育は死滅する。

自分の考えが他人と違うと思う時は意見を述べる、話し合う。だが現実には対話が成立していない。ほとんど言いっぱなしだ。会話というのは、相手に働きかけて自分の考えを伝え、相手の考えを聞く。そうして自分の考え、または相手の考えが変化する。そこにドラマがある。今の教育現場にはドラマがない。子どもを育てる学校に、教育が存在していない。これは致命的なことではないか。」

 

    津波が来るという非常事態は、一種の興奮状態にある。その時、管理職か主任は、命を守るために適切な指示を出せないでいたのか。教員たちは指示をただ待ち続けたのか。

  あるいは、教員たちは、管理職が出した「待機せよ」という誤った指示を、ひたすら守っていた。自分の意見を出さず管理職に従うだけの、指示待ち人間になっていたのか。

 ここに潜むものを、究明しなければならないと思う。