石牟礼道子 「無常の使い」

 

 

    市の図書館で石牟礼道子の本を見かけた。本のタイトルは、「無常の使い」。彼女の想いの香り立つ文章をまた読みたいと思って借りて帰った。

 「五十年くらい前まで、私の村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった。必ず二人組で衣服を改め、死者の縁者の家へ歩いて行ったものである。

   『水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、お果てにな

りました』

    死者を出した村では、男も女も仕事を休み、男は墓穴を掘り、棺桶を作った。

    村の共同体すべてが、故人の思い出を持っていた時代がそこにあった。死者たちは生者たちに、おのが生命の終わりを、はなむけに残して、逝くのである。

    その無常の使いはもうすっかり死語になってしまった。」

 

    漁村、水俣に、チッソのもたらした惨劇は、人を、村を、海を、暮らしを、歴史を、ことごとく破壊した。石牟礼道子が文章に著わした「無常の使い」は、荒畑寒村、細川一、仲宗根政善白川静鶴見和子橋川文三、上野栄信、谷川雁、井上光春、土本典昭宇井純ら23人 。

 

    鶴見俊輔の姉、社会学者の鶴見和子さんは、不知火海総合学術調査団に参加し、水俣に来た。石牟礼道子はその時のことを書く。

    「水俣にこの方をお迎えできたことは、天の配剤だったと思います。なりそこないの日本近代はどうあればよかったのか考えておりましたので、和子さんのおっしゃる内発的発展論を知った時、これぞ日本人の自立を促すカギだと思ったことです。和子さんが水俣にいらした時、訪問予定の反対側の家に入ってしまわれました。そこにその家の主人が風呂上りの一糸まとわぬ姿で立っていた。家をまちがえたと気づかない和子さんは、これが漁村の日常風景だと思われたらしく、ノートを取り出して、どんどん質問をなさった。男性は仰天した表情だったけれど、興に乗って実り豊かな話が聞けた。裸のご主人は、『来年また来てくだはりまっせ』とあいさつなさった。」

 

    鶴見和子さんは、2006年に亡くなられた。和子さんは遺言で、自分の遺骨は紀伊の海に散骨してほしいと言っていた。弟の鶴見俊輔さんは「葬送の自由をすすめる会」の協力を得てそれを実行した。

    鶴見和子鶴見俊輔姉弟が幼かったころの思い出を、石牟礼道子さんは和子さんから聴いた。

    「雪の降る日はね、庭の中を二人がね、チーンチーンと鉦をたたいて回るのよ、巡礼ごっこ。雪が降るとどうしてあれがやりたかったのかしら。弟と二人で、内緒の遊びなの。楽しかったわあ。」

    この遊びをすると親からひどく叱られたらしい。

 

 「苦しんで苦しんで、考えたっばい。チッソを許そうと。一時は呪い殺すぞち思わんでもなかったが、人は恨めばもう苦しか。チッソが助からんことには、私たちも助からんと。」

    痛苦を日夜与えられた人たちの、極限を超えた苦悶に加え、加害者の罪をも引き受けたとおっしゃる。これほどの壮絶な『ゆるす』は聞いたことがない。