永井荷風「花火」

 

 「明治44年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、市ヶ谷の通りで、囚人馬車が5、6台も日比谷の裁判所の方へ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件で、この折ほど言うに言われぬ、いやな心持のしたことはなかった。わたしは文学者たる以上、この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレヒューズ事件について、正義を叫んだために、国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。わたしはなんとなく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて、はなはだしき羞恥を感じた。

 以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで、引き下げるにしくはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れを下げ、浮世絵を集め、三味線をひきはじめた。わたしは江戸時代末期の戯作者や浮世絵師が、浦賀に黒船が来ようが、桜田門大老が暗殺されようが、そんなことは下民のあずかり知ったことではない、――否、とやかく申すのはかえって恐れ多いことだと、すまして春本や春画をかいていた。その瞬間の胸中をば、あきれるよりはむしろ尊敬しようと思い立ったのである。

 かくして大正二年、わたしは山城河岸の路地にいたある女の家で、三味線を稽古していた。」

 

 永井荷風は、大逆事件を心にかけながらも、無視することにした。この「花火」でも、事件を詳細を書いていない。しかしそれは自己の心に大きな責めを残しつづけたため、このような自己批判の文章となった。

 この大逆事件は、日清日露の戦争が勝利に終わって、帝国主義の道をひた走りに走り始めた時期に起きた。司馬遼太郎が、アジア太平洋戦争敗北後に、「鬼胎」と言ったもの、それがのさばり始め、日本国家を占拠していった初期の事件だった。

 「小説家ゾラはドレヒューズ事件について、正義を叫んだ」というのは、19世紀末、フランス社会を二分した事件であった。ユダヤ系の陸軍大尉ドレヒューズが、ドイツのスパイ容疑で終身刑に処せられたが、小説家のゾラなどの知識人が彼は無実であると、当局を弾劾したため、軍と右翼が反撃、フランス国論は二分した。ゾラは国外に亡命して、外から正義を叫びつづけた。結局真犯人が明らかとなり、ドレヒューズは無罪となった。

 司馬の言う「鬼胎」というもの、今も世界中にうごめいている。