アマさんを偲ぶ
今年五月、安曇野のわが家に雨包夫妻と大辻夫妻がやってきた。その時すでにアマさん(雨包)の腹部は大きく膨れていた。腹水が溜まっていたのだ。アマさんは癌におかされていたのだ。今年に入って、雨包夫妻は長年の夢、スイス・アルプスへの旅を計画していたけれど、病状は進行し、二人はスイス旅行を断念して、国内の岩手への旅に切り替え、宮沢賢治、石川啄木らを訪ねる旅をしてきた。
そして酷暑の夏がやってきた。「アマさんが危篤」の報がとびこんできたのはお盆が過ぎた日だった。私は信州松本空港から神戸空港へ飛行機で飛び、病院に駆けつけたが、その日の午前中にアマさんは息を引き取っていた。病室に入ると、アマさんは動かぬ人となってベッドに眠っていた。私は、アマさんと一緒に登った数々の山旅を思い出して、山で一緒によく歌った「おいらは山男」をアマさんの枕元で歌った。もうアマさんは口を開かず、声は聴けなかった。
私とアマさんとの出会いは、1969年だった。私は初任の淀川中学から矢田中学に転勤し、アマさんが矢田中学二年生になったときに、アマさんの学級の担任となった。アマさんは、男子にも女子にも優しく、友愛の心情があふれていた。クラスの子らは男子も女子も正人君を、「マート」と呼んでいた。
マートの家は、通勤路の途中にあった。矢田駅を下りて矢田南中学校へ通じる街路、マートのお母さんは、待ってましたとばかり、私を招き入れて、なんともかとも、まったりした大阪弁で、たゆとう舟に揺られるように話をされた。マートはそのお母さんに育てられ、マートも穏やかで、温かだった。今は半世紀昔の1955年、森永ヒ素ミルク事件が起きた。ミルクを飲ませた赤ちゃんが命を奪われた。マートのお母さんは、「私も知らずにミルクをいくらか子どもに飲ませていたのよ。心配したけれど大丈夫でしたよ」と、ぽつぽつと話された。
マートは私が矢田中学校に創設した登山部に入部した。それからマートの「山」が始まった。最初の登山は夏休み、古道を探りながら吉野から明日香へ丘状の山を越える。途中でキャンプをした。夕暮れ、飯盒で飯を炊く。マートは枯れ木で火を焚いていた。突如、炎がマートのズボンに燃え移った。あわてて火を消して事なきを得たが、マートのズボンは化学繊維で造られていたためか、火の粉を受けて燃えだしたのだった。二日目、尾根道でイノシシの親子が、人間の道の一段下の獣道を走っていた。次に矢田中学登山部は奈良と三重の県境、台高山脈の奥地をめざした。尾根を縦走中、空が暗くなるほどミツバチの大群が草むらから湧き起った。「伏せー!」、私の叫びで全員山道に突っ伏して事なきを得たが、マートが転んでけがをした。その夕方、秘境の明神平でテントを張った。夕暮れ、食事も済ませた頃、深い霧がたちこめてきた。数メートル先は何も見えない。その時、不思議な遠吠えが霧の中から湧き起った。声は霧の中を移動する。距離は近い。この声は何だろう。ひょっとすると、すでに滅びたとされるニホンオオカミではないか。やがて霧が薄れ、声は消えた。正体は分からなかった。この体験は、ニホンオオカミの調査をしている会に伝え、今も記録に残っている。
山は神秘の宝庫だった。前任の淀川中学校でも登山部をつくって、近畿の山から木曽の御嶽山まで登った。淀川中学卒業生、矢田中学卒業生とは、成人してからも、山行をともにした。雪の白馬連峰、夏の北アルプス穂高や剣連峰、そしてまた黒部渓谷完全下降の冒険にもチャレンジした。黒部川の深い淵を泳ぎ、絶壁をつたい、数日かけて成功した山行にもマートがいた。
マートが矢田中学生でいたころ、地元の部落解放運動と大阪市教職員組合、矢田中学校教職員の三者は、新しい中学校建設を推し進めていた。運動の結果、矢田南中学校が創立された。矢田南中学は、差別のない社会、人間を解放し共生社会を創り上げていくための、学力、考え、生き方を育てることを目指した。
マートは成人し、志して教員になった。教育はマートにとって天職と思えるものだった。底抜けに優しく、子どもたちと遊び、子どもたちと学び、子どもたちとともに生きる、「教育とは何か」を追求する彼の人生の始まりだった。学校は彼の生き甲斐だった。
我が家に時々、アマさんから、教育実践と研究について書かれた膨大な記録が送られてきた。自分のクラスの学級通信も送ってきた。それによって、アマさんが今どんな考えで、どんな実践をしているのか、よく分かった。
2012年、アマさんが担任をしている小学校6年1組の学級通信や親への資料が送られてきた。その中に「学級参観、懇談会」についての親への通信があり、そこにこんなことが書いてあった。
「学習では、間違いを恐れず、自分の思っていることをみんなの前に出すこと、友だちの意見をしっかり聞くこと、今やることに集中すること、私はそう子どもたちに言ってきました。自分の考えを出すということは、自分の頭で、『こうじゃないかな』と、まず考えてみることです。『本当はどうかな』と、問い続けることです。そのために大切なのは、子どもたちがどれだけ『はてな?』と思うことを発見するかということです。『はてな?』を発見し、それを楽しく追求して、その過程で学び方を体得していく、そういう学習を、私はめざしています。」
こんな資料もあった。
「今、授業は、国語と理科を合わせた、『モンシロチョウのなぞ』という話を読んでいます。モンシロチョウが何を手掛かりに花を見つけるのか、子どもたちで予想し、考えを出し合い、探ります。‥‥」
子どもたちが興味津々で、発見しようと意気込む様子が想像できる授業だった。親へのアマさんの通信は、驚くほど丁寧で詳しいものだった。
なるほど、アマさんは、すぐれた教育の先人の実践を学び、常に「学ぶとはどういうことか」を追求していたのだった。板倉聖宣が研究実践し、提唱した仮設実験授業も、彼は自分の教育実践に活かしていたのだった。
私はほぼ8年かけて、「教育とは何か」というテーマをもって、我が半生を振り返り、「夕映えのなかに」(上下巻)という著書を出版した(本の泉社)。それを読んだアマさんが、私に送ってくれた読後感想文の中に、こんな文章があった。この感想文は、今にして思えば遺言ではなかったか。
「教育とは何か、どんな教育を創造すべきか、『夕映えのなかに』は、教育研究、教育実践の書である。私は若い教員に、三つのことを伝えたい。
一つは、授業力を高めること、教科書をなぞる授業ではなく、知的におもしろい授業をつくること。
二つ目は、児童生徒の集団づくりを、理論的に実践できるようになること、そして集団の質が高まっているかどうかが見えるようになること。集団の質を高めるために、何を取り組めばいいのか、教師集団で論議し、学級集団づくり、学年集団づくりが実践できるようになること。
三つ目は、師を見つけ、自分を客観的に観ることができるようにすること。
今の教員たち、とりわけ若い教員たちへ私は伝えたい。苦難の中で、教育に生きた先人たちにもっと学ばなければならない。もっと世界の教育実践に学ばなければならない。」
アマさんの残した教育実践は、私の心を打つ。アマさんには、これからも若い教員たちの指南役として活躍してほしかった。
悔やまれてならない。惜しい、あまりにも惜しい。
アマさんの遺言を今の現役の教員の皆さん、どうか受け継いで、教育を創造してくださるように切に願う次第です。