愛唱歌に込められた戦争

 

 

 明治時代になって西洋文明が日本を革命的に変えていったが、そのかなめになったのが教育だった。国づくりを担う人材養成だ。義務教育が制度化され、学校で教わる歌は、国民に愛唱された。自然を歌う、暮らしを歌う、愛国心を涵養する軍歌も作られ、歌われた。

 明治45年、「冬の夜」という歌が、尋常小学校唱歌に指定された。

 

1 ,   ともしび近く 衣(きぬ)縫う母は 春の遊びの 楽しさ語る

  居並ぶ子どもは 指を折りつつ 日数かぞえて 喜び勇む

  囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪

2,, 囲炉裏のはたで 縄なう父は 過ぎし戦(いくさ)の 手柄を語る

  居並ぶ子どもは 眠さ忘れて 耳を傾け こぶしを握る 

  囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪

 

 この父の語る戦とは、日清戦争日露戦争か。勝ち戦の武勇伝だ。この歌は昭和の時代に入っても小学校の子どもたちに歌われ、戦争への意識が育まれていった。

 

 昭和10年発表の、サトウハチロウ作詞、徳富茂作曲の「もずが枯れ木で」という歌がある。

 

1、 モズが枯れ木で 鳴いている おいらはワラを たたいてる

   綿びき車は おばあさん コットン 水車も 回ってる

2、 みんな去年と 同じだよ けれども足んねえ ものがある

   兄(あ)んさの薪割る 音がねえ ばっさり 薪割る 音がねえ

3、 兄んさは満州へ 行っただよ 鉄砲が涙で 光っただ

   モズよ 寒いと鳴くがよい 兄んさはもっと 寒いだろ

 

 1931年(昭和6年)、日本軍の中国東北部への侵攻が始まり、傀儡国家の満州国をつくった。かくして15年に及ぶ日中戦争がくりひろげられ、農民として生きてきた若者たちが、銃を担いで寒い満州で戦わねばならなかった。この歌には、非戦、反戦の気持ちが秘められている。この歌は昭和20年の敗戦後、反戦平和の集いや歌声喫茶の中でよく歌われた。

 昭和16年に発表された歌に「里の秋」がある。日米開戦の年だ。

 

1、 静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は

   ああ、母さんとただ二人 栗の実煮てます いろりばた

2、 明るい 明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は

   あゝ 父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す

3、 さよなら さよなら 椰子の島 お船に揺られて 帰られる

   ああ、父さんよ ご無事でと 今夜も母さんと 祈ります

 

 この歌の「椰子の島」に父は行っている。第一次世界大戦三国同盟のドイツ・オーストリア・イタリアと、三国協商のイギリス・フランス・ロシアとの戦争)で日本は参戦し、日本は三国協商の側に立ち、勝者になった。その結果、赤道以北のドイツ領の島々は日本の委任統治になり、日本軍が統治していた。「父さん」は日本軍の兵士だったのだろう。

 

 卒業式で歌われる「蛍の光」、この歌の三番と四番の歌詞は今はもう歌われない。この歌詞の「八洲」は「やしま」、「おおやしま」は、多くの島からなるところ、日本国の古称だ。古事記にも出てくる。

 

 

3、 筑紫の極み 陸(みち)の奥 海山遠く へだつとも

   その真心は へだてなく ひとえにつくせ 国のため

4、 千島の奥も 沖縄も 八洲のうちの 守りなり

   いたらん国に いさおしく 努めよ わが背 つつがなく

 

 

 

 

 

 

 

『戦争』前に

 

 

     新船海三郎君が、先日、彼の近著を贈ってきた。まったく彼の意欲、エネルギーに感心する。その書名は「翻弄されるいのちと文学」、副題に「震災の後、コロナの渦中、『戦争』前に」とある。

    海三郎君の文章の一部をここに。

 

          ◆    ◆    ◆

   

    (日中戦争の時)二十歳で応召し、いきなり中国人青年を刺突させられた井上俊夫は、その犯罪意識を生涯背負って生き、詩を書いた。老日本兵井上は戦争論でこう言っている。

 

 ――「熾烈凄惨な戦場に立つと異常心理に取り付かれ、狂気に近い状態になって残虐行為を働く,と言われるが、自分はそういう解釈を拒否する。

 日本人は兵士になってもどこまでいっても善良な市民であった。それが証拠に、上官に反抗して殺傷に及んだものはごく少数だし、軍隊内の反乱など一度もなかった。では、なぜ兵士は残虐行為を働けたのか。

 それは兵士の背後に「大日本帝国」があったからだ。兵士の所属する帝国が敵兵をせん滅せよと命じていたからだ。恐ろしいことだが、兵士は残虐行為がもたらす愉楽を覚えてしまうと、病みつきとなり、何度でもやりたくなってくるのだ。殺人だけではない、略奪しかり、放火しかり、強姦しかりである。」

 

 戦争の魅惑とかというのは、天皇の股肱である大日本帝国の兵であることによって保障されたものである。問題の根は、天皇とその権威。権力を笠に着た軍首脳にこそある、と井上は指弾した。――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貞享義民とおしゅん、朗読劇

 

    11月23日に、安曇野市三郷にある貞享義民記念館で、「おしゅん 加助騒動と少女」朗読劇の最終公演があり、洋子と二人で鑑賞してきた。

    貞享義民記念館は、江戸時代、飢饉に苦しみ、重い年貢にあえぐ百姓たちが、支配者の松本藩に立ち向かった農民一揆の義民を顕彰して建てられた。葉を落としたケヤキイチョウの大木の並ぶ参道のような奥に、質朴で床しい記念館があり、その二階が公演会場だった。部屋の大きさから限定された観客数は100人、薄暗がりの舞台に三人の女性の語り手が並び、サイドの女性の演奏するマリンバがBGⅯとなって、農民たちと16歳の少女の悲劇は語られていく。

    300余年前の江戸時代、松本藩主は農民の年貢を、収穫の6割に引き上げた。それまでの5割でも過酷だったのに、さらに米を供出せよという。米の収穫が凶作で百姓が飢えても、藩は容赦しない。ついに農民は直接行動に出た。庄屋の加助をはじめとして13名の農民が、集団で松本藩に年貢軽減を訴え出ることになった。そこに一揆の主導者の一人小穴善兵衛の娘、16歳の「おしゅん」も加わり、加助の村だけでなく、近隣の村からも直訴隊に加わるものが出て、人数は増えた。

    しかし加助たちの訴えは聞き届けられず、松本藩は直訴した農民十二人を「磔(はりつけ)」の刑、十四人を「さらし首」に処した。16歳のおしゅんも処刑された。

    明治13年、この悲劇を悼んで貞享義烈碑が建てられた。碑文に次のような言葉が刻まれている。

    「加助村長、ひそかに思えらく、身を殺して、もって仁をなすの語あり、今わが生を捨てて、もって民の苦しみを救わざれば、暴政はやまじ。‥‥加助、磔柱に上るや、悲憤して曰く、『死して鬼となり、これに報いん 』、柵外に見るもの千百、‥‥ああ、加助 藩政に横死して 明治の時代に称揚せられ、自由民権を論ずるものの宗とするところとなる。在天の魂もまたもって少しく慰めらるべし」。

 

     この「おしゅん」の朗読劇は、貞享義民300年祭の節目に、児童文学者の大坪かず子さんが物語にし、それをもとに絵本美術館「森のおうち お話の会」の酒井倫子さんが朗読劇に仕上げたものだった。2014年から今年で公演10年になり、今秋が最終となった。

 三人の女性の語り手は、一時間の朗読劇をたっぷりと心に響く発声で演じられた。

 

    このような歴史が記念館に保存され、朗読劇となった安曇野、私は安曇野に引っ越してきて十数年になる。が、この歴史をいくらか知ってはいたが、ここを訪れることがこれまでなかったことを恥ずかしく、残念に思う。

    また、この歴史や記念館や催しを、市民や学校の教員、児童生徒たちがどれだけ知っていたのだろうかと、気にもなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

庶民の暮らし

 

                  

 今住んでいる安曇野扇町地区公民館で、高齢者の集いが毎年行われる。コロナでここ数年中止になっていたが、今年は実施された。会の企画をしている高橋さんから、

 「吉田さん、中国での体験を話ししてくれますか」

という要望があったので、お話させてもらった。以下はその話。

                 ◆      ◆      ◆

 青島の下町で2カ月暮らしたことがあります。日中技能者交流センターの活動でした。もう十数年以上も前のことです。

 宿舎は、ずいぶんくたびれた3階建てで、部屋の窓から、向かいの住宅に住む人たちの暮らしがよく見えました。晴れた日には、どの家も一斉に布団干しをします。お母ちゃんたちが洗濯物を干します。暑い日は、お父ちゃんが部屋の中で、裸で過ごしています。

 ぼくの生活は自炊でした。道路向かいに、庶民のスーパーがあり、食材はほとんどそこで買いました。売り場のお姉ちゃんと親しくなり、チンゲンサイを選んでいると、彼女は、そっと横に来てポリ袋を広げてくれます。豆腐屋のおばさんは、「豆腐一元」と言うと、包丁で、作り立てのまだ暖かい豆腐を切り取って、秤にかけてくれます。それが、ぴったし一元の量になるのです。「おみごと!」、感嘆の声を上げると、おばさんは、得意そうな顔で笑います。十分ほど歩けば巨大テント張りの市場があり、そこは朝から押すな押すなの賑わいで、生きている魚から乾物、雑貨、衣服、なんでもあり、石臼で豆を粉にして作っている豆腐屋もあります。トラックに、リンゴを積んできた農夫、ハミ瓜を満載してきた農夫たち。彼らはトラックを並べて売っています。西瓜、桃、ナシ、ものすごい迫力の直売です。青島では、どこでもビールが飲めます。おじちゃんが、ポリ袋に生ビールを液体のまま入れて、ブラブラ家に持ち帰っています。
 宿舎の前の小屋で、新聞売りのおじさんが店を出していました。数種類の新聞を台に並べています。とても気のいいおじさんで、椅子と床几を売り場の横に置き、話をしたい人が来ると、おじさんはそれを差し出します。人はそこに座っておじさんと話をするのです。女の子が座っている日、中年のおじさんが話している日、みんな何か相談事のような感じです。話を聞いてほしくなるとやってきて、おじさんと話をして、アドバイスしてもらい、笑顔で去っていきます。おじさんは、真剣に話を聴き、意見を言って、笑顔で送り出していました。あるとき、近くの学校の女子生徒と、彼女とつきあっていた男の子が、けんかになりました。男の子は女の子につっかかっていきます。それを見たおじさんは、店をほったらかして男の子に近づいていき、「女の子に対して何をするか」、といつもにない厳しい表情で言い聞かせていました。けんかは、それで収まりました。おじさんは、毎日朝6時に店を出し、夕方まで一日中そこにいて、人々を眺めて暮らしています。無愛想な人も、近づいていくと、親愛の情が通い始めます。

 朝、ぼくが学校へ出勤するときも、夕方帰ってきたときも、新聞売りのおじさんは、いつも愛敬のあるしぐさで、右手を上げて挨拶してくれました。 

 この街の公園には、昼間、おばさんたちが、犬を連れて集まってきて、ベンチのおしゃべりに花を咲かせます。犬はリードでつながない人が多く、それなのに犬たちはケンカしたり、吠えたり、どこかへ行ってしまうということはありませんでした。

 夕方、近くの広場に人が集まってきて、つくられた野外ステージで、社交ダンスが始まります。知らない人どうしても飛び入り歓迎、暗くなっても、わずかな街灯の下で、ぎっしり男女数十人が抱き合うように踊っていました。

 ぼくが日本に帰るとき、新聞売りのおじさんは悲しそうな顔で手を振ってくれました。近づかなければ決して湧いてこない心情です。

 人と人との距離、日本はどうだろうかと考えさせられる青島の暮らしでした。

 それからしばらくして、北京へ出講しました。宿舎は北京のはずれにありました。そこで驚嘆したのは、早朝から始まる公園の光景でした。夜が明け始めると、ぞくぞくと市民が集まってきて、公園のいたるところで、グループを作って、それぞれやりたい運動や活動を始めるのです。太極拳、ダンス、剣舞、弁論、合唱、ランニング、球技、瞑想‥‥、なんとすごい光景であることか、ぼくは毎朝、驚嘆しました。夏場だけだろうか、誰かが大声で指揮したりしているわけでもなく、自発的な活動のようなのです。ぼくは圧倒されていました。

 昼間、住宅地のあちこちの道際や庭で、マージャンをするおばさんたち、おじさんたちもよく見ます。

 中国は猛烈な勢いで発展をしました。今も、こういう光景は見られるのだろうか。ぼくの想いは、日本の現状にも向かいます。人と人との距離、交流、日本はどうだろう。日本の子どもたち、青年たち、大人たち。日本人の日常生活は内に向かい、他者との直接交流が少ない。限られています。

 人間社会は今後どうなっていくか。ぼくは日本の未来に危機感を覚えます。急激な発展をとげてきた中国も、現在は又異なる問題に突き当たっているだろう。

 今の日本、世界、人類、危機感をひしひしと覚えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

犬養道子「人間の大地」の叫び

 

 

    犬養道子の「人間の大地」(中公文庫 1992 )は、何度読んでも心が泣く。

    その112ページ

    「ほぼ七万人収容のカオイダン難民キャンプの病者テント内に、一人の子がいた。親は死んだか殺されたか、はぐれたか、一語も口にせず空を見つめたままの子。衰弱した体は菌にとって絶好の獲物であったから、その子は病気をいくつも持っていた。国際赤十字の医師団は、打てるだけの手を打ってから、さじを投げた。その子は薬も、流動食も、てんで受け付けなかった。幼心に「これ以上生きて何になる」の絶望を深く感じていたのだろう。

    ピーターと呼ばれる、アメリカからのボランティアの青年が働いていた。医者がさじを投げたその時から、ピーターはその子を抱いて座った。特別の許可を得て、彼は夜も抱き続けた。その子の頬を撫で、接吻し、耳もとで子守唄を歌い、二日二晩、ピーターは用に立つ間も惜しみ、全身を蚊に刺されても動かず、子を抱き続けた。

    三日目に、反応が出た。

    ピーターの眼をじっと見て、その子が笑った。

    「自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思ってくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった‥‥」

    この意識と認識が、無表情の石のごとくに閉ざされていた子の顔と心を開かせた。

    ピーターは泣いた。よろこびと感謝のあまり、泣きつつ勇気づけられて、食べ物と薬を子の口に持って行った。

    子は食べた。絶望が希望にとってかわられたとき、子は食べた。薬も飲んだ。

    そして、その子は生きたのである。

    回復が確実なものとなったある朝、私はセクション主任と一緒にその子を見に行った。

    「愛は食にまさる、愛は薬にまさる」

    セクション主任は、子をなでつつ深い声で言った。

    「愛こそは最上の薬なのだ、食なのだ。人々の求めるものはそれなのだ。」

    朝まだき、とうに40度に暑気が達し,山の彼方からは銃声が聞こえ、土ぼこりがもうもうと吹きまくっていたカオダイン、私は生涯忘れることはないだろう。

 何かを与えに、助けに、私は行ったのだろうか。否。

 与えられ、助けられたのは、私であった。

 究極的に、何がいちばん大切なのか。難民の子らは、人々は、ピーターのような若者は、日ごと私に教えてくれたのだ。だからこそ、ゼロのゼロであったインドシナ難民に対し、カネだけ出せばそれでよいとした日本国の日本人を、私は悲哀の限りをもって眺めたのである。とどのつまり、人間とは縁(えにし)の動物なのである。縁(えにし)なくして人間は人間になりえない。

    「泣くものとともに泣き、喜ぶものとともに喜ぶ」他者を、相手を、人間は必要とする。

    人間の実存と生そのものは、断絶・分裂・自己閉鎖・孤立にはなく、具体化してゆくところにのみ、人間の生の開花と成長が可能となる。 。

    互いにかかわりあい、縁(えにし)を深めあわぬ限り、宇宙を代表することも地の表を新しくすることもできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「イシ」の物語

 

 

    1900年、カリフォルニアにやってきた人類学者のクローバーは、無数のネイティブアメリカンの先住民が殺され、部族が滅されている現実に出会った。危機を感じたクローバーは、大量殺戮が完了してしまう前に、原住民の情報を少しでも多く蒐集しなければならないと思い、情報を集めた。そこで出会ったのが、ヤヒ族の最後の生き残り、イシだった。

    イシは、皆殺しにされた部族の、たった一人の生き残りであり、家族の惨死を悲しみつつ、たった一人で何年間も身を隠していた。彼は足跡を一つも残さなかった。山の中に、まだ「未開人」「野生のインディアン」が生き残っていることを悟られないように、足跡を掃いて消していた。

    イシは、孤独で悲惨な暮らしに耐えきれなくなって、死を覚悟して侵略者の前に現れた。そこで出会ったのは死ではなく、クローバーであり、彼の思いやりと友情だった。

    イシは、近代都市の中で生涯を送ることになった。イシは、石器時代から20世紀までの巨大な溝をたった一歩でまたいでしまったのだった。クローバーは見た。イシの一歩は品位あるもので、人間としての尊厳を少しも失わぬものであった。「文明」と「未開」の間にある溝は、実は単に無知と偏見と恐怖心の溝に過ぎなかった。

 「イシ」という名は、彼のヤヒ族の、「人間」という言葉であった。イシはクローバーの良き友人となった。だが、イシは、わずか5年後に、結核で死亡した。ヨーロッパからアメリカ大陸に移住してきた人たちは、多くの伝染病を持ち込んでいたのだった。

 

    「イシ」の記録物語は、1991年、岩波書店から出版されている。

 

 

 

 

 

 

 

滅ぼされた民族

 

    世界各国で主に使われている言語を見ると、

◆ブラジル、アフリカの旧ポルトガル領は、ポルトガル語

◆メキシコ、中南米(ブラジルをのぞく)は、スペイン語

◆オーストラリア、ニュージーランドアメリカ、カナダ、インド(ヒンドゥー語に次ぐ)は、英語

◆カナダ(ケベック州など)、ベルギー南部、スイス北部は、フランス語

◆ドイツ語オーストリア、オランダ、スイスの一部で使われ、イタリア語が、フランス領のコルシカ島、スイスの一部で使われている。

    これは何を物語っているか。侵略の歴史だ。

    その歴史、アメリカの場合。

    イタリアの航海者、コロンブスは、1492年、アメリカ大陸を発見した。

    1607年、イギリスによるアメリカ大陸の植民地開拓が始まる。それは、先住民「インディアン」と呼んだ人たちの領土への侵略だった。先住民は侵略者への抵抗の闘いを繰り広げた。しかし白人の侵略者に打ち負かされていった。

    ヨーロッパに奴隷商人がいた。彼らは、15世紀から行われていたアフリカ黒人奴隷売買を、アメリカに広げた。

    1754年、イギリス対フランスの戦争が起きた。戦争はイギリスが勝ち、イギリスはカナダとミシシッピー以東を得、その地はイギリスの植民地になった。

    その後、13の植民地がイギリスからの独立運動を起こした。それはアメリカ独立戦争に発展し、1783年アメリカは合衆国として独立を宣言した。

    1861年、奴隷制をめぐって始まった南北戦争で、1863年リンカーン奴隷解放宣言を行い、北軍が勝利した。戦死者は北軍36万人、南軍26万人に達した。

    一方先住民族は侵略軍に打ち負かされた。アングロサクソン人(イギリス系)は、一年に十万人も洪水のように押し寄せた。戦争による死者と、白人の持ち込んだ多くの感染症による被害は、先住民に大きな打撃を与えた。

    「イシ」という書名の、詳細な記録が書かれた。ヤヒ族のたった一人の生き残りの記録である。(続)

 

 

 

 

 

 

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