ヘルマン・ヘッセの訴え

f:id:michimasa1937:20150214220423j:plain

 

  ドイツ人のヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦のとき、スイスに住んでいた。戦争が始まり、ヘッセはこの戦争は不可避だと思い、自分も志願兵になろうとした。だが強度の近眼であったから、兵士になれなかった。

 ヘッセの考えが変わったのは、ドイツが中立国のベルギーに侵攻したためだった。この戦争は間違っているとヘッセは気づく。だが、ドイツの雑誌には戦争礼賛と、敵国憎悪の記事があふれていた。この時、日本も参戦し、中国にあるドイツ占領の租借地、チンタオ(青島)のドイツ軍基地を攻略して、日本の支配下に置いている。あの戦争ではドイツにとって日本は敵国だった。フランス、イギリスも敵だった。

 ヘッセは新聞に文章を発表した。「おお友よ、その調子をやめよ!」と、ドイツの詩人や学者、芸術家、ジャーナリストに訴えた。

 「自分はドイツ人で、ドイツを否定する最後のものだ。戦線の兵士に武器を捨てよと言おうとは思わぬ。しかし、文化にたずさわる者が血迷ってはならぬ。戦争だからといって、美しい日本のおとぎ話や、すぐれたフランスの小説が、ドイツ語に翻訳されてはならないということは肯定できない。ドイツの悪い本より、イギリスの良い本の方が良いのだと言う、分別と勇気を持とうではないか。

 ゲーテは、ナポレオン戦争の時、愛国の詩はつくらなかったけれど、内的な自由と知的な良心と世界市民的な考え方によってドイツを愛することを示した。我々もこれ以上ヨーロッパの未来の基礎を動揺させることのないように、ペンで切りかかることをやめよう。戦争の征服こそ、われわれの最も高貴な目標である。人間の文化は、動物的な衝動をいっそう精神的なものに浄化することによって進歩するのだ。愛は憎しみよりも美しく、理解は怒りよりも高く、平和は戦争よりも高貴であるはずだ。」

 ヘッセのこの呼びかけ、「おお友よ、その調子をやめよ!」は、ベートーヴェン交響曲第九の合唱、歓喜の賛歌を導入するために加えた「おお友よ、その調子ではなく、もっと快い喜びに満ちた調子で歌おう」の一句を借りたものであり、ヘッセは、せめて文化に奉仕するものは、戦争熱にかられ、憎悪をあおることはやめよう、と訴えたのだった。

 この訴えに対して、ドイツの新聞はいっせいに、変節漢、裏切り者と、ヘッセを弾劾し、ののしった。友人たちはヘッセを見限った。出版社はこんな破廉恥な者の本は出版しないと宣言した。未知の人からも侮辱の手紙がたくさんやってきて、ヘッセの心はいやすことのできない傷を負った。ヘッセを弁護したのはごく少数だった。その一人は、後の西ドイツ大統領になるテーオドル・ホイス、ジャーナリストであった彼は激越な評論でヘッセの人格と信念、そして権利を擁護した。ロマン・ロランはヘッセを讃え、長い友誼を結んだ。

 

 このことを、「ヘルマン・ヘッセ 危機の詩人」(新潮選書)にドイツ文学者高橋健二が書いている。(1974年)

 今の日本をどう見るか、歴史はいつも何かを示唆している。

 

 

 

 

 

生命の不思議

f:id:michimasa1937:20150107193019j:plain

 

 道端の霜柱は、丈が5センチほどもある。畑に行くと、玉ねぎの苗は、かなりよく育っていて、霜柱によって土から掘り出されるという苗は、1月の土抑えで防ぐことができている。ニンニクも大丈夫だ。

 何も作っていない畝は秋に黒豆を収穫した畝だ。その天地返しをやった。息切れがする。隣の畑は機械できれいに耕してある。こちらは、スコップを土に差し込んで、重い土を持ち上げ、上下を逆に元のところにどかっと置く。天地返しによって表面を覆う小草は土の中にはいってしまう。これから繁茂する草を抑えることができ、土に酸素が入り、いい土になる。

 小さな草たちは、もう花をつけている。

 ホトケノザの赤花、ハコベの白花、オオイヌノフグリの青花、ナズナの白花。

 おっ、ナナホシテントウだ。元気に歩いている。無事、越冬したか。そっとつまんで、隣の野沢菜の畝に置いてやった。野沢菜は初冬に漬物にした残り、まだたくさん株が残っている。これにはこれから花が付き、菜花としておいしく食べられる。

 おっ、クモだ。おまえも無事越冬したか。

 小さな生き物、どうして凍死しないで生き延びられるのか。

 生命の不思議。

ディン君の話

f:id:michimasa1937:20150116021935j:plain

 

 今日午後2時から5時まで、ディン君に日本語を教えた。彼、自転車で、雨にぬれてやってきたが、薪ストーブの火が暖かく、すぐに服が乾いた。

 彼は昨年暮れに二級の日本語検定試験を受けた。だが合格しなかった。無理もない。残業続きの技能実習生だから、勉強する時間があまりにも少ない。

 休憩のひとときに彼がいれてくれるベトナムのコーヒーを飲む。

 彼のお父さんは、彼が大学二回生の時に胃がんで亡くなり、建築学を学んでいた彼は家族を助けるために退学した。

 話がベトナム戦争関係になった。彼のお父さんの兄(おじさん)は、ベトナム戦争に従軍したという。

 ベトナム戦争は、実に陰惨な、激越なアメリカ軍の攻撃で、おじさんは食うものもなくなり、ご飯の上に焼けた森の木の灰をかけて食った。米軍の枯葉作戦によるダイオキシンはジャングルを枯死させ、その影響は今も残っており、体の異常な赤ちゃんが生まれてくる。兄弟の体がくっついて生まれてきたベトチャン、ドクちゃんは日本に来て手術を受け、体が切り離されたことがニュースにもなり、日本では知らない人はいない。その後、どちらだったか、一人は死んでしまった。今も、何らかのダイオキシン被害が出ているということはニュースにもならないから知られていない。

 ベトナムは、アメリカとの戦いの前に、フランスと戦争していた。インドシナ戦争だ。1946年に始まった戦争は、フランスがインドシナの支配をねらったもので、アメリカが莫大な軍事援助をフランスに対して行ったが、ディエンビエンフーの戦いで、ベトナム民主共和国軍が勝利をおさめ、独立を果たした。

 「曾祖父はディエンビエンフーの戦いにも参加していました。」

とディン君が言った。

 五時過ぎ、また雨の中、ディン君は自転車に乗って寮へ帰っていった。

 

ムクドリ

 

f:id:michimasa1937:20150116021621j:plain

 秀さんとこから、コメの収穫後に出た米ぬかをもらってきて、動物性の台所食材の廃棄物を堆肥化するのに使っている。木箱のなかに、もみ殻燻炭とピートモスを混ぜて入れ、そこへ卵の殻や煮干しの煮だしたのや、魚のあらなどを投入してかき回し、ときどき米ぬかを入れる。そうすると発酵が始まり、投入した廃棄物が発酵分解していく。これが熟成すると、とてもいい有機肥料となる。植物性のゴミは丸太と角材でつくった、野外のコンポスト入れで有機肥料となる。

 冬のさなかでも、動物性コンポストは毎日かき混ぜる。そうするとホカホカと暖かい湯気が上がる。

 その横に置いておいた米ぬかの入った大きな紙袋が、先日ネズミにくわれて、底に大穴をあけられていた。冬場はネズミがやってくる。これが天井裏で走り回り、いたずらをして困っている。ネズ公にやられた米ぬかの残りを、冬場は何も作っていない庭の畑に撒いておいた。

 この数日、やってきた、やってきた、ムクドリの群れ。畑の米ぬかをバクバク食べている。ムクドリヒヨドリも、ちょっと大型の鳥は、食欲旺盛で、目を付けたら、毎日やってくる。

 冬場、小鳥の食べ物は乏しい。畑の米ぬかは、すっかり食べつくされた。

 ヒメクブシの枝に取り付けた、小鳥の餌場には、ヒマワリの種を入れてあるのだが、小鳥は一向にやってこない。モズはそこここで見るが、彼らは動物性を食べるから、いったい何を食べているのだろう。

 

 

 

 

 

 

車優先社会の実態

f:id:michimasa1937:20130214052913j:plain

 

 今日は看板を作った。

 風が冷たくて、凍えそうだが、ギコギコ木を切って看板を作り、文字を書いて、支柱に打ち付けた。

 それを立てるところは、家の前の交差点の角、

 看板の文章は、

「この先、生活路です。

事故が5件、起きています。

ゆっくり行ってくださいね。」

 北から野の道を走ってきた車は、我が家から南へ、集落の生活路のなかへスピードをゆるめずに、突っ込んでくる。「この先の生活路」というのは三百メートルほどの距離で、道沿いに家が建ち、くねくね曲がっていて見通し悪く、おまけに狭い。住民から聞き取りして、事故五件とした。

 以前からなんとかしなければと看板のことを思いつつ、実行していなかったから、人身事故が起きてからでは、後の祭りだと、今日実行に移した。

 出来上がった看板を、四つ角のひとつの隅に立てようと、支柱を立てる穴をツルハシとスコップで掘り始めたら、カチーンカチーン、土が凍土になっていて、穴がなかなか深く掘れない。日が暮れてきたから明日立てることにした。

 ところで、今朝の朝日新聞「耕論」に、「さよなら車優先社会」という記事が特集され、そこに信濃教育会の会長後藤さんの論が載っていた。「信号のない横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、停車しますか」、JAFの調査では全国平均が17.1%、長野県は断トツの1位、68.6%、なぜ長野の成績がいいのかというと、「道を渡った人が止まってくれた車にお辞儀をするからだ」と書いている。長野県では明治から就学率が高く、100年前から小中学校で「全人教育」をやってきたから、その影響が大きいのだという。

 これを読んで、そういうことかと思いつつも、はてなと疑問がわく。

 数年前、ぼくは地区の子ども会育成会の役を2年間つとめ、朝の登校時間になると、子どもたちが横断する危険性の高い交差点の横断歩道に立って、見守りをしたことがある。幹線道路のそこは車はスピードを出し、一旦停車する車が少なかった。68。6%が長野の実態なら、10台のうち7台は止まってくれるはず。そんなものではない。ドライバーの目は、交差点横の横断歩道を渡ろうと待っている子どもの姿にいかないのではないか、見えていないのではないかと思うことしばしばだった。次々と車は通過していく。さらに別の道の横断歩道を自分自身が渡っている途中、危うくはねられそうになったことがある。地区の住民は、その交差点に信号をつけてほしいと警察署に要望を長年出しているが、交差点の状況から無理だとして、信号が取り付けられていない。

 この長野県は「断トツのトップ」というのは本当だろうか、と我が脳裏に「?」が点滅した。

 JAFはどういうやり方で、この数字をだしたのだろうか。どんな調査の仕方をしたのだろう。JAFだからと、その調査の数字をうのみにしていないか、と思う。

ヒマワリの種

f:id:michimasa1937:20130214054712j:plain

 

去年、孫が送ってくれたヒマワリの種、

庭に蒔いて伸びた六本の芽は、

あれよあれよ、三メートル近くになり、

その花がまたでかくて、直径三十センチほどあった。

でかくなれば、風当たりも強い。

強風が吹くたびに、花の重さは幹を傾がせ、

花が実になると、次々倒れてしまった。

その実をとって、乾燥させ、工房に保管しておいた。

中国では、これを人間が食べていたなあと思いつつ

小鳥のえさ台をつくって、冬場に提供してやろうと、

計画していたけれど日が過ぎる。

「いつまでヒマワリの種を置いておくの?」

妻の声で、よしやろうと、材料の木材の端切れを使って、

屋根付きの小さな餌台を作った。

なかなか立派なもんができた。

コブシの木の枝につけるか、ヤマボウシの木に付けるか、

昨日の宵から降った雪、「オソカリシ ユラノスケ」、餌台まだ取り付けてない。

小鳥は餌がないから、雪をはねのけ、落ち葉をほじくって、さがしている。

餌台付けるぞ、もうちょっと待てよ、

とりあえず、ヒマワリの種、木の根方に置いてやろう。

食べろよ。

 

震災地に学ぶ修学旅行

f:id:michimasa1937:20130214051437j:plain

 

 ぼくはこの提案に賛同する。池澤夏樹の提案である。(2月5日 朝日新聞

 それは去年の十一月に仙台市のシンポジウムで、池澤が提示した修学旅行のプランだ。

 南海トラフの巨大地震が近未来に起こると予想されている。起きれば恐ろしい結果を引き起こすことも、メディアは予報している。しかし、人々は恐れながらも、対策は行政任せになっている。今日明日に起きることでもないだろう、来るか来ないか分からないものは心配してもしょうがない、多くの人はそう考えている。

 池澤は考えた。高校生の修学旅行で東北の大震災被災地に行くという計画。彼の計画とは・・・。

 〇 飛行機で仙台空港に降りる。一瞬にして水浸しになって閉鎖された空港をターミナルビルの屋上から観察し、当時を想像する。

 〇 つづいて海沿いの荒浜地区に直行し、残された荒浜小学校の建物を見る。この四階建ての校舎が多くの人命を救ったことを自分の目で確かめる。高校生たちは数名ずつに分かれ、荒浜地区の各所に散らばり、決められた時刻に地震が起きると仮定して、時刻が来ると、生徒たちは荒浜小学校四階めざして避難する。このとき、実際の地震のときは、非難するかしないかは、自分が判断するしかないことを実感する。

 〇 石巻市に移動する。大宮町の避難タワーに登る。高台まで遠いところの人は、このような建物が役に立つことを確認する。

 〇 多くの児童と教師が亡くなった大川小学校へ行く。小学校は震災遺構として保存するかしないかをめぐって大きな議論になった。その小学校の遺構に立って、命が助かるにはどうするか、周辺を観察し考える。裏は山なのになぜ子どもたちはそこへ逃げなかったのか、教師はなぜ間違った指示を出したのか、「大川伝承の会」の保護者の話を聞き、多くの子どもたちが津波に飲まれた「三角地帯」に行く。

 〇 女川町に行く。西から峠を越えて入る国道の途中から、下の現支援学校のあたりまで水が来たことを実感させる。

 〇 陸前高田市に行く。気仙川に沿って5キロ先まで津波が来たことを教える。避難所と仮設住宅を見る。仮設住宅で一泊体験も考えられる。

 〇 大船渡市に行く。ここでは市役所も病院も新聞社も高台にあって津波の被害はなく、それはチリ津波による被害を教訓に活かした結果であることを学ぶ。

 〇 釜石市に行く。小中学校の子どもたちから死者を出さなかった避難の様子、「津波てんでんこ」の教育と訓練を体験者から学ぶ。

 

 池澤の提案はざっとこんな修学旅行である。「高校生に体験的に学習させることが大事だ。いつの日か、彼らが避難と耐乏と再建の主役になるかもしれない。人は惨事を忘れたがる。目前の楽しみに走る。記念館を作って待っていても人は来ない。」

 と池澤は書く。

 デジタル空間の仮想体験ばかりの昨今、修学旅行も生徒の人気を得るものとなっている。実際に見ろ、体験しろ、考えろ、痛みを感じろ、魂で感じろ、そういう修学旅行を実施することは今の学校の実態からすれば至難の業かもしれない。だからこそ、こういう修学旅行を考える必要があるのだ。

 改革しようとする教師よ、保護者よ、出でよ。