人類の危機

 

 

 

 

 

    今朝、「ヒロシマ原爆」の慰霊の式典をTVで観た。今日もあの日のように暑い。このような酷暑の朝に、ヒロシマを焼き尽くす原爆が襲ったのだ。毎年、テレビの前で、ぼくは祈る。

 

    今、日本列島は、猛烈な暑熱のなかにある。

    かつて山本良一氏(東大教授)が書いていた。

    「世界の平均気温が1~3度上昇すると、激烈な気候変動が起こり、きわめて危険な状態になる。飢餓が発生し、マラリアが広がり、水不足が襲う。世界の三分の一が被害を受ける。グリーンランドの氷が全面融け始め、海流が減速し、停止する。世界最大の流域面積を持つアマゾン流域はサバンナとなり、激烈な気候変動が起きる。‥‥」

    恐ろしい警告であり、予言である。

    EUはすでに、「人類は気候変動との闘いにはいった。この闘いに勝たなければ、人類の生存は無い」と宣言している。

    1992年、地球温暖化を防ぐための京都議定書が、国際会議で採択された。二酸化炭素、温室効果ガスの排出量を削減するための、国際的な取り決めだ。この議決は2005年発効した。

   

 

    今、日本は猛暑のなかにある。そこへ熊本地震が襲った。被災者の苦悶は計り知れない。

    戦争、環境破壊、自然災害、地球はボロボロ、人類もボロボロ‥‥。

 

 

 

 

 

これは何かの前兆ではないか

 

 

  

 

    庭の小さな畑は、キウリ、トマト、インゲン、ナス、ゴーヤ、ししとう、大根‥‥、いろんな野菜が豊作だ。食べきれないから、隣近所に持って行って食べてもらっている。

    安曇野も厳しい暑さだ。我が家の近所は数軒あり、周囲は田んぼだ。今年も、虫の姿や声も消え、小鳥の声も消えている。田んぼの中をのぞいても、動くものが何も見えない。無音、無生命の世界だ。かつて電線に並んで止まっていたたくさんのツバメ、スズメ。鳥たちはどこへ行ったのだろう。

 

    戦争が終わった時、ぼくは小学2年生、大阪の南河内に住んでいた。夏は暑かった。毎日裸で暮らした。家の前は巨大な野池、裏は天皇陵の濠(ほり)、北隣は町の墓地。野池ではフナや雷魚、カイツブリが泳ぐ。あたりは無数の生命であふれていた。草やぶは昆虫や爬虫類の住みかだ。家の周囲で、ツチバッタが跳び、ヘビが這う。トカゲが走る、キリギリスがしきりに鳴く。池の面でウシガエルが鳴く。木々の枝でセミが鳴く。空を渡り鳥の群れが鳴きながら飛ぶ。

    夏は小動物の祝宴の場だった。

    それから長い年月が経った。日本社会は猛烈な勢いで変化していった。

    30年前、栃木県那須の農村に一時住んだことがある。ある夜のことだった。ぼくは、ぐっすり寝ていた。ふと何かの音で眼が覚めた。外で大きな雨音がする。にわか雨だ、と思った時、突如近くの田んぼからカエルの大合唱が湧き起ったのだ。降る雨を喜ぶ野のカエルたちの歓迎の声だった。

    生き物たちは田畑に生き残っているぞ、ぼくは感動して、しばらく目覚めていた。

それからまた年月が経った。ぼくの人生は変転した。ぼくは20年前から信濃の国、安曇野に住んでいる。北アルプスの峰が連なるところだ。移住したころ、まだ田んぼの中にはいろんな水棲昆虫が住んでいた。それを観察するのが楽しかった。ところが、それから20年近くが経ち、環境は激変した。田んぼの中に、動くものが見えない。野のどこからも声が聞こえない。ツバメ、スズメの姿も見ない。昆虫の姿はわずかしか見えない。

    これは何か、恐ろしい前兆ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい民衆の精神を熱望した詩人



 

    大正時代は、自由主義が日本社会をおおった。その典型を示す詩がある。今から100年も前の、百田宗治原作だが、今もつづく世界の混沌を見つめる意味で、この詩を紹介したい。長い詩なので、一部割愛、短縮する。

 

 

    君たちに送る 新しい民衆の精神

                百田宗治

            

 

 君たちは知っているか

 今ぼくらが どんな時代にいるかということを

 君たちの生誕を待っていた世界

 君たちはあの声を聴くだろう

 澎湃(ほうはい)として起こってくる声

 今や世界のあらゆるところから

 すべてのものの胸を開かしめる

 新しい民衆の精神を

 

 おお 君たちをもとめてきたこの声

 あらゆる国で

 あらゆる発想で

 世界の迷妄から救いに行く自由な声 

 

 ああ、君たちが求めていたのはこれだ

 君たちの精神に鬱積していたのは これだ

 すでに君たちはこの声を叫んでいたのだ

 君たちの精神はこの精神に目覚めていたのだ

 

 民衆! 

 誤った文化の迷妄から脱した真人

 目覚めた精神

 それは深く開かれた人間の眼だ

 新しい精神だ 真の人間の覚醒だ

 新しい相互扶助の世界だ

 正しい人類の意志だ

 

 見よ 裸のぼくらを

 新しい世界観を

 若き魂を

 いっさいの哲学的迷妄から自由なぼくたちを

 いっさいの宗教的迷妄から自由なぼくたちを

 いっさいの支配と圧制から自由なぼくたちを

 いっさいの階級、不当な権力から解放された精神を 

 

 新しい世界の築造だ

 真の人間の築造だ

 

 

 

 この詩の作者の願いにもかかわらず、昭和に入って日本は急速に変わりゆき、軍国主義の侵略国家になっていった。そしてヒロシマ、ナガサキへの原爆のとどめとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追憶「節一さん」

 

 

    1967年、教員になって7年目、私は淀川中学から矢田中学へ、当時「教育困難校」と呼ばれていた学校に転勤した。ところが世評とは異なって、生徒達は素朴で、授業も学級活動も実に楽しい。

    私は生徒会の顧問になって、生徒議会、弁論大会を実施し、陸上競技部や登山部をつくり、活気のある生徒集団を作ろうと実践した。ある日、

    「ムラ主催の弁論大会があるので、先生がたも聴きに来ませんか」

という案内が、学校に来た。地元の部落解放同盟矢田支部からの招きだった。

    私は夕方、その地区の会館に行った。ムラ人がぎっしりと集まっている。弁論大会が始まると、ムラのおっちゃん、おばちゃんが、一人ずつ演壇に立って、自分の生い立ちや日常生活を話す。

    小学校は途中までしか行かず、親と一緒に野菜などを農家から仕入れてきて、リヤカーに積んで売りに行って生活してきた話。

    家は細い路地裏にあり、水道はなく、ひとつの井戸の水を数軒で使いながら仲良く生活してきた話。

    語られる差別の実態、私はその弁論に驚嘆した。

    ムラ人たちの話が終わると、部落解放同盟支部の書記長、節一さんが立ち上がり、聴衆に語りかけた。

    「小説『蟹工船』を書いた小林多喜二を知っているか。彼は、1933年2月、国民の思想統制を行う特高警察に捕らえられ、警察署内で拷問を受けて虐殺されたのだ。

    警察署に駆け付けてきた多喜二の母セキは、多喜二の遺体を抱きしめ、号泣し、叫んだ。

    『多喜二、多喜二! もう一度立ってみせねか。みんなのために、もう一度立ってみせねか。』

    もう一度立ちあがれ、もう一度闘うのだと叫んだ、この母の叫びを、オレたちは自分のこととしているか、自分のこととしているか。」

    節一さんの声は痛恨の響きを発し、人々の胸を打った。

    節一さんは若いころ、大阪湾に停泊をしている貨物船からの荷下ろしをして、小船で岸に運ぶ「沖仲仕」の仕事をしていた。沖に停泊した貨物船から荷を下ろし、「はしけ」に積みかえ、陸に運ぶ港湾労働者だ。そこに暴力団が関わり搾取をする。危険な、命がけの仕事だった。暴力団に従わなかったものは、リンチを受けて海の藻屑となった。大阪湾の海の底には、そうして殺された労働者たちの死体が何人も眠っている。

    節一さんはその激烈な体験をしてきたのだった。

 

    節一さんの口から、よく出る言葉があった。

    「山よりでっかいシシは出ん」

    山よりも大きい獅子は出ない、相手がどんなに強大で非情であろうとも、限界がある、よく相手を見よ、よく考えて、行動するのだ。

    部落差別の元となる身分制度は、支配者によってつくられた。明治時代に入って、政府は差別を無くす「解放令」を出した。が、差別は隠然と続いた。大正時代、奈良の被差別部落住民が決起して、差別を我らの手で打ち砕かんと、「水平社」を立ち上げ、全国的な運動に発展した。ところが、支配者は軍国主義による侵略戦争にひた走り、「水平社」は壊滅した。

    敗戦後、日本は、平和への願いと民主主義社会建設への運動が高まり、「水平社」は、部落解放同盟という名称で復活、差別を無くす国民運動になった。

   被差別部落の子どもたちの高校進学率は極端に低く、就職にも差別が現れていた。その実態を、節一さんは厳しく批判した。学校はどんな教育をしてきたのか。教員は何をしてきたのか。

 その指摘が契機になって、教員たちの中に動きが生まれた。部落解放をめざす教育を地域住民と共に創造しよう。その拠点となる学校を建設しよう。かくして大阪市教職員組合と部落解放同盟との共同闘争が立ち上がり、学校建設計画とともに、教育の変革も始まったのだった。大阪市行政はその運動を受けて、学校建設を決定したのだった。

    部落解放教育運動で新しい学校建設が実現した。節一さんはムラの子どもたちに期待した。部落出身の生徒のなかから、教員を生みだそう。医師も生みだそう。

 部落解放同盟支部はムラの一角にトタン葺きの、大きな建物を造った。たくさんの机・椅子を置き、そこに「解放塾」という名を付けた。ムラの生徒たちは学校生活が終わると、自由意思でそこに来て学習をする。教員たちは放課後、自由意思で解放塾にやってきて、生徒たちの学習を支えた。節一さんは嬉しそうにそれを見ていた。

 

    「解放塾」で節一さんが私に言った。

    「海を見たことがないという青年がいる。海へ連れて行ってやろうと思う。一緒に行くかい」

    節一さんに誘われ、ワゴン車に乗って、青年たちと南紀の海へ行った。海岸に着くと、青年たちは裸足になって遊び始めた。波打ち際に行き、寄せ波が来ると逃げ、引き波になると波を追いかけて海に入り、叫び声をあげて遊ぶ。節一さんは目を細めて眺めていた。

    そのころ水俣病との闘いや、三里塚農民の成田空港反対運動が激化し、全国的な闘争になっていた。節一さんは、その真相を現地へ行って確かめるように、ワゴン車を用意して青年たちを送り出した。

 中国では「文化大革命」と呼ばれる大きな動きが起きていた。節一さんは、その真相も現地へ行って調べるように青年たちの訪中を企画して決行した。私はそれらの企画にも加わったのだった。

 やがて部落解放同盟支部の青年たちのなかから待望の教員が生まれ、学校に赴任した。

    節一さんは、タバコをよく吸い、よく咳をした。肺ガンだった。部落差別に対する糾弾闘争の時の行為が暴力だったという告訴に対する裁判闘争がまだ続いていた。

 病状は進み、部落の青年たちに見送られて、節一さんは旅立って行った。葬儀のいっさいは、青年たちが行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美輪明宏さん死去

 

 

 

 「美輪明宏さん死去」のニュースが今朝の新聞に出ていた。

 

 

 「『ヨイトマケの唄』反戦も訴え 91歳。

 新聞一面と三面に美輪明宏の写真と訃報記事載っている。

 

 「日本のシンガー・ソングライターの先駆け、『ヨイトマケの唄』は労働者の尊厳や、母と子の絆を歌い、大ヒットした。

 ‥‥美輪さんは被爆者として平和を訴えた

 ‥‥少数者の心 しなやかな声‥‥

  

  美輪明宏さんは、信念を貫いて、核兵器の恐ろしさを伝える発言を続けてくださった。(長崎原爆被災者協議会)

 美輪さん作詞作曲の『ヨイトマケの唄』は長年多くの人に愛され、勇気を与えてきた。」

 

 美輪さんの残したメッセージがある。

 

  こんな世の中を

  生き抜く武器は

  愛の言葉しかありません

  この世のすべての問題を

  解く鍵は愛です

  愛があれば

  戦争なんか起こりません

 

 

 美輪さんの訃報を知って、ぼくの頭の中に、響くものがある。

 ぼくの小学校時代、学校に通うときに電車の踏切を渡っていった。踏切には遮断器があり、電車が通過する時には、踏切番が遮断器を下ろした。

 時々、線路工夫が線路工事をしていて、ツルハシを振り下ろしながら歌を歌っていた。それが「ヨイトマケ」の唄に似ていた。

 「かあちゃんのためなら エンヤコーラ  子どものためなら エンヤコーラ‥‥」

 今もその光景が頭に浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 豊かなる弦月地帯

 

 

 

 ヨーロッパからインドまで、大学山岳会の仲間と、車で探検の旅をしたのは1965年だった。イタリアから出発して、ギリシャ、トルコを経、イラクへ入り、聖地エルサレムを訪ねた。平和だった旅は、この地で緊張をはらむものとなった。

    イスラエルの支配地域から、ヨルダン側へ毎日のように銃弾が飛んでくる。イスラエルとヨルダン側の間には、広大な無人地帯が生まれ、ゴーストタウンになっていた。ぼくはその現場を目の当たりにした。

    ぼくらはそこからバクダッドをめざしてイラク砂漠を横断した。砂漠と言っても、初めはラグビーボール大のゴロゴロの岩石の平原だった。岩石砂漠の中はとても歩けない。車の走る道路は石が取り除かれていて、そこをどんどん行くと、岩石砂漠の石は次第に小さくなり、学校のグランドのような土漠に変わっていった。

    やがて遠く地平線に樹林が現れてきた。大河ユーフラテスの、沿岸地帯の樹林だ。

  「おう、樹だ。緑の樹だ。」

    みんなは感激の叫び声をあげた。

    「樹はいいなあ、命だなあ!」

    背高く伸びたナツメヤシの樹林が広がる。一本のナツメヤシに子どもがよじぼって、実を取っている。そして現れたのがユーフラテス川だった。バクダッドの街はそのほとりにあった。その日はバクダッドの安宿に素泊りした。翌日、イランのテヘランを目指してチグリス川を越えた。

    ユーフラテスとチグリスの水はどこから来るのだろう。たぶん北の山岳地帯からだろう。二つの大河が流れるこの地に、紀元前4千5百年、メソポタミア文明が生まれた。

    シリア・アラブ地方に、「豊かなる弦月地帯」という言葉があった。イラク砂漠地帯を三日月形に取り囲む、食糧作物を生み出す地域だ。そこに文明が栄えた。緑の幸をもたらすその三日月形の地帯は、チグリス・ユーフラテス流域からシリア、地中海沿岸に向けて弧を描くようにつながるところ。その形から「豊かなる弦月地帯」と呼ばれた。

    今、この豊かな恵みをもたらすところが、戦場となり、奪い合い殺し合いの場になり、怒りと憎しみをかきたてるところとなっている。

 

           ◇   ◇   ◇        

 

    「イラク北部、クルド人居住区のシャニダール洞窟で、旧人類のネアンデルタール人の骨が見つかった。その一つが、子どもの骨だったが、障がいを持つ子と思われ、骨の周りに、八種類の化石化した花粉が固まっていた。」というニュースをかつて読んだ時の驚きを忘れない。障がいによって亡くなった子を、たくさんの花で包んで葬った親がいた。

 

      ◇   ◇   ◇

 

    豊かなる弦月地帯から南部、イラクのかなたに広大な砂漠地帯が広がる。ナフード砂漠とダフナー砂漠だ。そこはアラビア半島だ。その半島とイランの間に食い込むようにペルシャ湾が入り込んでいる。大国のエゴによる争闘は、この湾のホルムズ海峡にも影響を及ぼしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五月の土壌

 

 

 

        五月の土壌

 

    耀く日差しの五月がもうすぐ去る。木々の葉の輝き、畑の野菜のみずみずしさ、日の光、高村光太郎の詩、「五月の土壌」が頭に浮かびぶ。

 光太郎は戦時中、戦争協力の詩を詠い、敗戦後、自分のその罪を強く意識して、岩手県花巻近郊の山野に小屋を建て、一人その小屋にこもって農をしながら7年間、贖罪の生活をした。そして詩を詠った。ぼくら夫婦がこの小屋を訪れたのは、光太郎が亡くなって長い月日が経っていた。

 

 

                      五月の土壌

   

           五月の日輪は 豊かに輝き

   五月の雨は みどりに降り注いで

   野に

   まんまんたる気迫はこもる

 

   肉体のような土壌は

   あたたかに ふくよかに

   まろく うずたかく ひろびろと

 

   盛り上がり もり上がり

   遠く地平に 波をうねらす

   

   あらゆる種子を 包み 育み

   虫けらを 呼び覚まし

           悪しきもの 善きものの 差別を断ち

   天然の律に従って

   地中の本能に息づき

   生くるもののためには 滋味とねぐらを与え

   朽ち去るもののためには 再生の隠忍を教え

   永劫に  

   無窮の沈黙を守って

   かつ堅実の微笑を見する 土壌よ

   ああ 五月の土壌よ

   土壌は けがれたものを恐れず

   土壌は あらゆるものを浄(きよ)め

   土壌は刹那(せつな)の力をつくして 進展する

 

   見よ

   八反の麦は 白緑にそよぎ

   三反の大根は すでに分列式の儀容をなし

   そこ ここに 萌え出る無数の微物は

   青空を見はる 嬰児の眼をしている

   ああ そして

   一面に乱れて響く 呼吸の音よ

   無邪気な生育の争闘よ

   わが足に来る 土壌の熱に

   我は 激しく 人間の力を思う