
1967年、教員になって7年目、私は淀川中学から矢田中学へ、当時「教育困難校」と呼ばれていた学校に転勤した。ところが世評とは異なって、生徒達は素朴で、授業も学級活動も実に楽しい。
私は生徒会の顧問になって、生徒議会、弁論大会を実施し、陸上競技部や登山部をつくり、活気のある生徒集団を作ろうと実践した。ある日、
「ムラ主催の弁論大会があるので、先生がたも聴きに来ませんか」
という案内が、学校に来た。地元の部落解放同盟矢田支部からの招きだった。
私は夕方、その地区の会館に行った。ムラ人がぎっしりと集まっている。弁論大会が始まると、ムラのおっちゃん、おばちゃんが、一人ずつ演壇に立って、自分の生い立ちや日常生活を話す。
小学校は途中までしか行かず、親と一緒に野菜などを農家から仕入れてきて、リヤカーに積んで売りに行って生活してきた話。
家は細い路地裏にあり、水道はなく、ひとつの井戸の水を数軒で使いながら仲良く生活してきた話。
語られる差別の実態、私はその弁論に驚嘆した。
ムラ人たちの話が終わると、部落解放同盟支部の書記長、節一さんが立ち上がり、聴衆に語りかけた。
「小説『蟹工船』を書いた小林多喜二を知っているか。彼は、1933年2月、国民の思想統制を行う特高警察に捕らえられ、警察署内で拷問を受けて虐殺されたのだ。
警察署に駆け付けてきた多喜二の母セキは、多喜二の遺体を抱きしめ、号泣し、叫んだ。
『多喜二、多喜二! もう一度立ってみせねか。みんなのために、もう一度立ってみせねか。』
もう一度立ちあがれ、もう一度闘うのだと叫んだ、この母の叫びを、オレたちは自分のこととしているか、自分のこととしているか。」
節一さんの声は痛恨の響きを発し、人々の胸を打った。
節一さんは若いころ、大阪湾に停泊をしている貨物船からの荷下ろしをして、小船で岸に運ぶ「沖仲仕」の仕事をしていた。沖に停泊した貨物船から荷を下ろし、「はしけ」に積みかえ、陸に運ぶ港湾労働者だ。そこに暴力団が関わり搾取をする。危険な、命がけの仕事だった。暴力団に従わなかったものは、リンチを受けて海の藻屑となった。大阪湾の海の底には、そうして殺された労働者たちの死体が何人も眠っている。
節一さんはその激烈な体験をしてきたのだった。
節一さんの口から、よく出る言葉があった。
「山よりでっかいシシは出ん」
山よりも大きい獅子は出ない、相手がどんなに強大で非情であろうとも、限界がある、よく相手を見よ、よく考えて、行動するのだ。
部落差別の元となる身分制度は、支配者によってつくられた。明治時代に入って、政府は差別を無くす「解放令」を出した。が、差別は隠然と続いた。大正時代、奈良の被差別部落住民が決起して、差別を我らの手で打ち砕かんと、「水平社」を立ち上げ、全国的な運動に発展した。ところが、支配者は軍国主義による侵略戦争にひた走り、「水平社」は壊滅した。
敗戦後、日本は、平和への願いと民主主義社会建設への運動が高まり、「水平社」は、部落解放同盟という名称で復活、差別を無くす国民運動になった。
被差別部落の子どもたちの高校進学率は極端に低く、就職にも差別が現れていた。その実態を、節一さんは厳しく批判した。学校はどんな教育をしてきたのか。教員は何をしてきたのか。
その指摘が契機になって、教員たちの中に動きが生まれた。部落解放をめざす教育を地域住民と共に創造しよう。その拠点となる学校を建設しよう。かくして大阪市教職員組合と部落解放同盟との共同闘争が立ち上がり、学校建設計画とともに、教育の変革も始まったのだった。大阪市行政はその運動を受けて、学校建設を決定したのだった。
部落解放教育運動で新しい学校建設が実現した。節一さんはムラの子どもたちに期待した。部落出身の生徒のなかから、教員を生みだそう。医師も生みだそう。
部落解放同盟支部はムラの一角にトタン葺きの、大きな建物を造った。たくさんの机・椅子を置き、そこに「解放塾」という名を付けた。ムラの生徒たちは学校生活が終わると、自由意思でそこに来て学習をする。教員たちは放課後、自由意思で解放塾にやってきて、生徒たちの学習を支えた。節一さんは嬉しそうにそれを見ていた。
「解放塾」で節一さんが私に言った。
「海を見たことがないという青年がいる。海へ連れて行ってやろうと思う。一緒に行くかい」
節一さんに誘われ、ワゴン車に乗って、青年たちと南紀の海へ行った。海岸に着くと、青年たちは裸足になって遊び始めた。波打ち際に行き、寄せ波が来ると逃げ、引き波になると波を追いかけて海に入り、叫び声をあげて遊ぶ。節一さんは目を細めて眺めていた。
そのころ水俣病との闘いや、三里塚農民の成田空港反対運動が激化し、全国的な闘争になっていた。節一さんは、その真相を現地へ行って確かめるように、ワゴン車を用意して青年たちを送り出した。
中国では「文化大革命」と呼ばれる大きな動きが起きていた。節一さんは、その真相も現地へ行って調べるように青年たちの訪中を企画して決行した。私はそれらの企画にも加わったのだった。
やがて部落解放同盟支部の青年たちのなかから待望の教員が生まれ、学校に赴任した。
節一さんは、タバコをよく吸い、よく咳をした。肺ガンだった。部落差別に対する糾弾闘争の時の行為が暴力だったという告訴に対する裁判闘争がまだ続いていた。
病状は進み、部落の青年たちに見送られて、節一さんは旅立って行った。葬儀のいっさいは、青年たちが行った。