アマさんを偲ぶ <3>

 

 2013年10月22日のこのブログに、大阪市立加美中学校41期生同窓会に招かれたときのことを書いている。「奇跡の同窓会」という記事。その記事の最後に、矢田中学卒業生のアマさんの元気なときを刻んでいた。自分の記事だが、なつかしい。こんな記事だった。

         ☆    ☆    ☆

 「我が身にまとっているものをかなぐり脱ぎ捨てて、裸の心になる。それが同窓会の良さでもある。
 久しぶりに出会った同級生と、話に夢中になっているみんなの笑顔がよかった。仕事で神経をすり減らし、子育てで疲れ、ストレス多い生活の人たちも、この場ではそれを放して、昔の友だちと気楽に別天地をつくる、それが同窓会だ。
 マキちゃんたち6人の発起人はそういう同窓会をやりとげた。名簿、住所録、何もかもゼロ、ゼロから出発して、口コミだけでこれだけの同窓生を集めたマキちゃんたち世話役、彼らは、同窓会の裏方に徹していた。
 同窓会は人を解放するが、おしゃべりの輪のなかに入っていきにくい人や、重い現実があって、心が硬くなっている人もいるだろう。もっと時間があれば、彼らの心の扉をとんとんたたいてみたかったと思う。
 同窓会が終わり、みんなと別れてからぼくは地下鉄に乗って、マート(アマさん)の家に向かった。
 マートの家は、大阪市の東南地区、マンション6階にある。
 マートの家に入ると、ミノル君とマサコさんが来ていた。二人は同級生結婚、マートは矢田中の卒業生。ミノル君とマサコさんはマートより一年下で、矢田中から分かれて新設された矢田南中学に移り、矢田南中学卒業生になった。マートの奥さんのエミちゃんとマサコさんが、鍋料理の準備をしてくれていた。ミノル君以外は3人とも現職の小学校教員だ。ここでもよくおしゃべりをした。
 話を聞いていて、学校現場がますます厳しくなっていることを実感する。教育行政は、現場の教師たちの置かれている困難さを認識せず、トップダウンで教員人事を動かし、教師たちを生き生きと実践できない方向へと追い込んでいることに暗澹とした。
 マートは相変わらずよく勉強していた。マートは2冊の本を見せてくれた。
  「板倉聖宣セレクション いま、民主主義とは」(仮説社)
  「日本の戦争を終わらせた人びと」(中一夫 ほのぼの出版・仮説社)
 最近取り寄せたという。内容をぱらぱらと見てみて、これは読みたいとぼくも思った。
 現場の教師たちの実践が痩せていっているとしたら、その原因のひとつは上からの教育行政のしめつけのなかにもあり、同時にもう一方の教師の主体的な「創造と学び」がきわめて乏しくなっていることにも原因があるように思う。
 その日 、マートの家で泊めてもらった。
 翌日、マートとエミちゃんの出勤に合わせて一緒に出て、加美中同窓会に来れなかったマサルと会うために待ち合わせ場所に行った。地下鉄駅前の横断歩道を歩いていくとやってきた自転車の男が、「センセイ」と声をかけてきた。マサルだった。25年ぶりなのに、遠くからすぐに分かったと言う。そこからマサルの先輩になるシンジ君の家を向かう。歩きながらマサルはよく話した。中学時代はまともに話したことがなかった彼には、ガキ大将の片鱗はもう見られず、穏やかな男に成長していた。
 シンジは再婚して、奥さんと眼の見えないコーギー犬と暮らしていた。スーパーつっぱりだったシンジも、飲み屋の店をもち、その上に自分の家を自分で造って住んでいた。
 彼との話もおもしろく、人間の成長を考えさせられた。シンジの奥さんも一緒に入って2時間、人生論、社会論、教育論、話は変幻自在だった。
 信州へ帰るとき、シンジはおいしいパン屋のクロワッサンやチーズケーキなどを用意していて、ぼくに持たせてくれた。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アマさんを偲ぶ <2>

 

アマさんを偲ぶ <2>

 

 生前、マートから、いろいろ教材や教育研究の資料が、どっさりコピーして送られてきた。それを今、なつかしく読み返したりしている。

私も、いろいろコピーして、マートに送ったりした。

そのなかにこんな詩があった。子どもの詩だ。

 

 

       ふしぎな夢

 

 ぼく 鳥になってん

 ゆめのなかで ツルになって

 ばたばた 空をとんでん

 そやけど ついらくしてしもうて

 いまも おいどが いたいねん

 

 ぼく 死んでもうて

 ゆめのなかで 死んでもうて

 わんわん ないていたんや

 そやけど 死んでしもうたのに

 なんで 泣いていたんやろな

 

 ぼく 水になってん

 ゆめのなかで 川になって

 ちょろちょろ ながれたんや

 そやけど ぼくはぬれてへんで

 ほんま おねしょは してへんで

 

       「おいど」は大阪弁で、お尻のこと。

 

 

      たった一字で

 

 あのっさあ

 きのう おもしいごと

 友だちと 見つけたんだや

 

 標準語でっさあ

 「それ食べなさい」

 「それではいただきます」

 って言うちゃ?

 そいず うちの方の言葉だど

 「それ食わいん」

 「んで食うがら」

 どっがさ

 「それ食え」

 「食う」

 とか言うんだでば

そんで もっとひどくなっど

「食(け)」

「食(く)」

になっぺちゃ

 

 いやあ  おがしおがし

 「一字で通じてしまうっちゃあ」

 って 二人して大笑いしだのっさ

 

 

  子どもの詩を楽しみにしている教師は、子どもの心を生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アマさんを偲ぶ

 

          アマさんを偲ぶ

 

    今年五月、安曇野のわが家に雨包夫妻と大辻夫妻がやってきた。その時すでにアマさん(雨包)の腹部は大きく膨れていた。腹水が溜まっていたのだ。アマさんは癌におかされていたのだ。今年に入って、雨包夫妻は長年の夢、スイス・アルプスへの旅を計画していたけれど、病状は進行し、二人はスイス旅行を断念して、国内の岩手への旅に切り替え、宮沢賢治石川啄木らを訪ねる旅をしてきた。

 そして酷暑の夏がやってきた。「アマさんが危篤」の報がとびこんできたのはお盆が過ぎた日だった。私は信州松本空港から神戸空港へ飛行機で飛び、病院に駆けつけたが、その日の午前中にアマさんは息を引き取っていた。病室に入ると、アマさんは動かぬ人となってベッドに眠っていた。私は、アマさんと一緒に登った数々の山旅を思い出して、山で一緒によく歌った「おいらは山男」をアマさんの枕元で歌った。もうアマさんは口を開かず、声は聴けなかった。

 私とアマさんとの出会いは、1969年だった。私は初任の淀川中学から矢田中学に転勤し、アマさんが矢田中学二年生になったときに、アマさんの学級の担任となった。アマさんは、男子にも女子にも優しく、友愛の心情があふれていた。クラスの子らは男子も女子も正人君を、「マート」と呼んでいた。

    マートの家は、通勤路の途中にあった。矢田駅を下りて矢田南中学校へ通じる街路、マートのお母さんは、待ってましたとばかり、私を招き入れて、なんともかとも、まったりした大阪弁で、たゆとう舟に揺られるように話をされた。マートはそのお母さんに育てられ、マートも穏やかで、温かだった。今は半世紀昔の1955年、森永ヒ素ミルク事件が起きた。ミルクを飲ませた赤ちゃんが命を奪われた。マートのお母さんは、「私も知らずにミルクをいくらか子どもに飲ませていたのよ。心配したけれど大丈夫でしたよ」と、ぽつぽつと話された。

    マートは私が矢田中学校に創設した登山部に入部した。それからマートの「山」が始まった。最初の登山は夏休み、古道を探りながら吉野から明日香へ丘状の山を越える。途中でキャンプをした。夕暮れ、飯盒で飯を炊く。マートは枯れ木で火を焚いていた。突如、炎がマートのズボンに燃え移った。あわてて火を消して事なきを得たが、マートのズボンは化学繊維で造られていたためか、火の粉を受けて燃えだしたのだった。二日目、尾根道でイノシシの親子が、人間の道の一段下の獣道を走っていた。次に矢田中学登山部は奈良と三重の県境、台高山脈の奥地をめざした。尾根を縦走中、空が暗くなるほどミツバチの大群が草むらから湧き起った。「伏せー!」、私の叫びで全員山道に突っ伏して事なきを得たが、マートが転んでけがをした。その夕方、秘境の明神平でテントを張った。夕暮れ、食事も済ませた頃、深い霧がたちこめてきた。数メートル先は何も見えない。その時、不思議な遠吠えが霧の中から湧き起った。声は霧の中を移動する。距離は近い。この声は何だろう。ひょっとすると、すでに滅びたとされるニホンオオカミではないか。やがて霧が薄れ、声は消えた。正体は分からなかった。この体験は、ニホンオオカミの調査をしている会に伝え、今も記録に残っている。

    山は神秘の宝庫だった。前任の淀川中学校でも登山部をつくって、近畿の山から木曽の御嶽山まで登った。淀川中学卒業生、矢田中学卒業生とは、成人してからも、山行をともにした。雪の白馬連峰、夏の北アルプス穂高や剣連峰、そしてまた黒部渓谷完全下降の冒険にもチャレンジした。黒部川の深い淵を泳ぎ、絶壁をつたい、数日かけて成功した山行にもマートがいた。

 マートが矢田中学生でいたころ、地元の部落解放運動と大阪市職員組合、矢田中学校教職員の三者は、新しい中学校建設を推し進めていた。運動の結果、矢田南中学校が創立された。矢田南中学は、差別のない社会、人間を解放し共生社会を創り上げていくための、学力、考え、生き方を育てることを目指した。

    マートは成人し、志して教員になった。教育はマートにとって天職と思えるものだった。底抜けに優しく、子どもたちと遊び、子どもたちと学び、子どもたちとともに生きる、「教育とは何か」を追求する彼の人生の始まりだった。学校は彼の生き甲斐だった。

    我が家に時々、アマさんから、教育実践と研究について書かれた膨大な記録が送られてきた。自分のクラスの学級通信も送ってきた。それによって、アマさんが今どんな考えで、どんな実践をしているのか、よく分かった。

    2012年、アマさんが担任をしている小学校6年1組の学級通信や親への資料が送られてきた。その中に「学級参観、懇談会」についての親への通信があり、そこにこんなことが書いてあった。

 

    「学習では、間違いを恐れず、自分の思っていることをみんなの前に出すこと、友だちの意見をしっかり聞くこと、今やることに集中すること、私はそう子どもたちに言ってきました。自分の考えを出すということは、自分の頭で、『こうじゃないかな』と、まず考えてみることです。『本当はどうかな』と、問い続けることです。そのために大切なのは、子どもたちがどれだけ『はてな?』と思うことを発見するかということです。『はてな?』を発見し、それを楽しく追求して、その過程で学び方を体得していく、そういう学習を、私はめざしています。」

    こんな資料もあった。

    「今、授業は、国語と理科を合わせた、『モンシロチョウのなぞ』という話を読んでいます。モンシロチョウが何を手掛かりに花を見つけるのか、子どもたちで予想し、考えを出し合い、探ります。‥‥」

    子どもたちが興味津々で、発見しようと意気込む様子が想像できる授業だった。親へのアマさんの通信は、驚くほど丁寧で詳しいものだった。

    なるほど、アマさんは、すぐれた教育の先人の実践を学び、常に「学ぶとはどういうことか」を追求していたのだった。板倉聖宣が研究実践し、提唱した仮設実験授業も、彼は自分の教育実践に活かしていたのだった。

 

 私はほぼ8年かけて、「教育とは何か」というテーマをもって、我が半生を振り返り、「夕映えのなかに」(上下巻)という著書を出版した(本の泉社)。それを読んだアマさんが、私に送ってくれた読後感想文の中に、こんな文章があった。この感想文は、今にして思えば遺言ではなかったか。

 

    「教育とは何か、どんな教育を創造すべきか、『夕映えのなかに』は、教育研究、教育実践の書である。私は若い教員に、三つのことを伝えたい。

    一つは、授業力を高めること、教科書をなぞる授業ではなく、知的におもしろい授業をつくること。

    二つ目は、児童生徒の集団づくりを、理論的に実践できるようになること、そして集団の質が高まっているかどうかが見えるようになること。集団の質を高めるために、何を取り組めばいいのか、教師集団で論議し、学級集団づくり、学年集団づくりが実践できるようになること。

    三つ目は、師を見つけ、自分を客観的に観ることができるようにすること。

    今の教員たち、とりわけ若い教員たちへ私は伝えたい。苦難の中で、教育に生きた先人たちにもっと学ばなければならない。もっと世界の教育実践に学ばなければならない。」

 

    アマさんの残した教育実践は、私の心を打つ。アマさんには、これからも若い教員たちの指南役として活躍してほしかった。

    悔やまれてならない。惜しい、あまりにも惜しい。

 アマさんの遺言を今の現役の教員の皆さん、どうか受け継いで、教育を創造してくださるように切に願う次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生の終い方」

 

    NHKスペシャル取材班制作の「人生の終い方」が、講談社から本になり、そこに、 「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるの最期が載っている。

    1922年、水木は大阪市住吉区で生まれた。水木の運命を狂わせたのは戦争だった。21歳の時、召集令状がとどいた。水木は、ラバウルに兵士として送られた。ラバウルは南太平洋の激戦地だった。戦友は次々と死んでいった。水木は左腕を失い、生死の境をさまよったが、奇跡的に一命をとりとめた。水木は、自分はまちがいなく死ぬ、そう覚悟していた。

    戦争は終結し、水木は命拾いをして帰還した。

    復員して愛読したのが、「ゲーテとの対話」だった。

    ゲーテは言う。

    「どうして遠くへ行こうとするのか。見よ、よきものは身近にある。ただ幸福のつかみ方を学べばよいのだ。幸福はいつも目の前にあるのだ。」

それから水木は、戦争体験を胸に刻み、漫画を描いた。それが水木の人生となった。

                           

   もう一編、 「人生の終い方」のなかの、長野県、梶田ひと美さんの体験記事が心に残った。

 梶田さんの父は、戦時中陸軍に入隊し、中国戦線に送られたが、戦争終結で復員し、結婚して二人の子どもに恵まれた。その一人が、ひと美さんだった。

 

    父は、82歳になったとき、病気で生死の境をさまよい、奇跡的に一命をとりとめた。それから父は、

    「これからは第二の人生だ」

と言って、戦争体験を本にまとめ、地元の小中学校へ行って、戦争体験を語り始めた。父は、数々の残虐行為を包み隠さず語った。

    戦争末期、父は捕虜となり、農家の納屋に収容された。

   そして中国の旧正月が来た。その日、家の農夫が、父の収容されている納屋に入ってきて、

   「家に上れ」

と言う。父は農夫の家に上った。目に飛び込んできたのは、テーブルに盛られたごちそうだった。

    日本軍によって、家族や親戚の命が奪われていたのに、その農夫は、今日は正月だからと、父たち捕虜を食卓に招き入れたのだ。

    この時、心に感じた想いを、語り部となった父は、亡くなる寸前まで、小中学校で、子どもたちに伝えつづけた。父は歩けなくなると、車椅子で学校に通った。

 

    娘の梶田さんは言う。

   「父は語り部として全力で生きました。生き方は、死に方であると思います。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サイパン島の悲劇

 

 

 私の叔父、茂造は、召集を受けて海軍に入隊し、サイパン島に出撃、米軍の攻撃を受けて 叔父は海の藻屑となった。叔父の遺骨は戻ることはなかった。

 サイパン島は、日本が第一次世界大戦のときの勝利者側になったために日本の委任統治領となり、たくさんの日本人が入植していた。だが、第二次世界大戦で日本が敗北して、今は北マリアナ諸島連邦の島になっている。

 日本人入植者の、小玉和子さんの手記がある。(「戦争が立っていた」暮らしの手帖社から)

 

        ☆     ☆    ☆

 

 サイパン島は、南十字星やエメラルドグリーンの海がきれいでした。島の日本人は、アメリカ軍の攻撃によって玉砕の運命をたどり、1944年、日本軍三万人。住民一万人が戦死しました。

 6月11日、米軍の攻撃が始まりました。空を覆う敵機。街はたった一日で消えました。私たち家族は父母と子ども四人。民間人は25000人。海岸道路は死体で埋まりました。水は一滴もなく、「水、水」と泣く子。母と子が、米軍の攻撃を逃れて、防空壕に入ろうとすると、日本兵が叫ぶ、

 「泣く子は殺せ! 防空壕から出ろ!」

 その母は子どもを殺し、自分は海に飛び込んで死にました。

 私の父は、私の眼の前で弟の首を絞めました。弟の死に顔は今も忘れられません。母は、弟のなきがらを抱いて、水、水、水と叫ぶ私にたまりかね、水を求めてジャングルの中を歩きまわりました。

 「盛男、ゆるして! お前を殺したのは母ちゃんだ。どうせ死ぬのなら、母ちゃんの膝で死なせたかった。」

 弟の死から8日間、夜に歩き回りました。山の上に米兵がいて、銃を撃ってきて、父が殺されました。アメリカ兵は、民間人は殺さないと、呼びかけていましたが、父が日本兵と間違われて殺されたのです。

 私たちは米軍の収容所に入れられました。そこでの生活は2年に及びました。栄養失調で数十人が死にました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「記憶の中のシベリア] 

 

 「記憶の中のシベリア  久保田桂子」(東洋書店新社)は、消すことのできない記憶の書である

    久保田桂子は、祖父の語った体験を映像作品にし、書籍にも書き遺した。その中の祖父の語りの一片を、8月15日にあたり、ここに書いておきたい。

       ☆     ☆     ☆

    私は、幼いころに祖父がしてくれた、中国での戦争やシベリアで暮らした日々の昔語りの断片を心にとどめて生きてきた。それは今も生活の中でふいに顔を出す。祖父は自分に確認するように、同じ話をした。

    「戦争の最後の頃はね、もうここで死ぬと思っていたんだ。それがまだこうして生きている。あそこで、ひどいことをしてきたんだ。‥‥こんなふうに生きていていいはずがない。」

    祖父はおびえたような顔をしていた。十回以上同じ話を聞いてきた母は、ベッドの周りを片付けながら、やわらかく、けれど感情をこめずに応える。

    「おじいちゃん、戦争だったのよ。」

    祖父は、二つの記憶の間を行ったり来たりしているように見えた。一つは、戦争中に中国で人を殺した記憶、もう一つは子どもの頃のやさしかった父親の記憶。

    その日、お茶を持って部屋へ行くと、祖父はベッドに座っていた。ベッドのかたわらに座って、祖父の顔を見て驚いた。ほおに涙の筋があった。祖父は顔を上げ、入院中から何度となく耳にした言葉を吐いた。

    「あんたに、こんなに世話をしてもらう価値なんて、オレにはないよ。中国でオレはひどいことをしてきたんだ。」

    声が震えていた。

    「殺したのは、兵隊だけじゃないんだ。このくらいの背丈の子どももいた。殺したのはオレだよ。オレはこんな風に生きていていいんだろうか。」

    祖父は、涙を流しながら、まるで自分が殺された子どもであるかのように、おびえていた。私は、頭が真っ白になって、何も感じられなかった。

    深いしわが刻まれた祖父の指の付け根、血管の浮き出た手の甲、握りしめているタオルケットを見ながら、自分の中に突如湧き上がってきた別の記憶に、祖父は混乱していた。

    数年前、祖父から戦争の話を聞かせてもらった後に、私は質問した。

    「昔のこと、どんなときに思い出すの? いちばん思い出すのはどんなこと?」

 祖父は少し考えてから話し出した。

    「中国でいちばん思い出すのは、あそこで戦争した、あそこで殺した。それは忘れんなあ。」

    初年兵の時、銃剣で腹を刺した。次に住民からワイロをとった。中国人の通訳、次に八路軍のスパイを殺した。

    「みんな、敵に見えちゃう‥‥」

    祖父は口ごもりながら、何かを考えていた。

    「そういうことが本気でできるようになるっていうのは、やっぱり戦友が殺されるんでね。そうすると、こんなもんと思ってね、それからだ‥‥」

    二年後、祖父はこの世を去った。

    母から、祖父はキンモクセイが好きだったという話を聞いた。祖父がシベリアから持ち帰ったという外套(がいとう)は、家の中のどこにも居場所がないようだった。窓際に吊るした外套は重くて、まるで亡霊のようだった。この外套を道連れに、祖父は家に帰ってきた。こんな大きな布の塊がどうしてリュックに入ったのだろう。祖父は、シベリアから持ち帰ったものを捨てるのをいやがった。今思えば、祖父にとっては、生死を共にした戦友であり、命の恩人だったかもしれない。

          ☆     ☆     ☆       

    悲惨な体験の記憶のために、死ぬまでその記憶に苦しむ人がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柔道は剛道になってしまっている

 

    オリンピックの柔道戦、見ていてやりきれない思いがする。つかみあいだ。腕づく力づくで、攻撃をしかける。負けた選手が腹を立てて、相手選手の股間を蹴るという行為があった。これではケンカだ。柔道ではない、剛道だ。いったい柔道の精神性は、どうなったのか。もう柔道の試合は見たくない。

    戦後の小学生時代、観音さんの近くに柔道場があった。道場の窓からのぞくと、若者たちが柔道の稽古をしていた。ぼくはしばらくそれを眺めるのが楽しみだった。道場では、師範の男性が指導していた。

    戦後の日本、戦争の深い傷あとが残っていて、親や家をなくした子どもたちが「浮浪児」と呼ばれ、街の中で靴磨きなどをしていた。その「浮浪児」をテーマにしたラジオドラマが「鐘の鳴る丘」で、夕方に始まるその放送を、多くの子どもたちは楽しみにしていた。ぼくの住む藤井寺町と、町の自治体警察は、青少年の健全育成を目的にした無料の子ども柔道教室を、中学生を対象に開くことを考えた。柔道師範に相談すると、師範は二つ返事で応じ、その道場で週一回、子ども柔道教室が開かれることになった。

    ぼくの仲間たちはそれを知ると、「おれら柔道を習おう」ということになり、中学一年生の六人が町に申し込んだ。その開講式が警察署の道場であり、六人は道場の畳にチンと座った。町長や署長の挨拶の後、柔道師範が、こんな挨拶をした。

    「私は、講道館嘉納治五郎に教えを受けました。その教えは、柔道は、礼に始まり礼に終わる道ということです。相手を尊重し、勝ったからといって、えらそうにするのではなく、負けたからといって、がっかりするのではないのです。礼儀を重んじ、潔い人間になるのです。柔よく剛を制すと言います。やわらかい力が、強い相手を倒すのです。これが柔道であり、柔道の精神です。」

    こうして子どもの柔道教室が始まった。ぼくは父親が旧制中学時代に使っていた柔道着をもらって、それを着た。ほかの友だちは道場のけいこ着を借りた。

    師範は子どもたちに、自然体ということを教えた。二人が向かい合って相手の柔道着の襟をつかむ。

    「力をいれない。自然な状態で立つんだ。技をかける時に、相手の力を使って投げるんだ。」

    すり足で二人は動き回りながら、すきを見て技をかける。こうして寝技、立技を習った。

    講道館嘉納治五郎はどんな人なのか、師範はこんな話をしてくれた。

   「柔道の神髄は、自他共栄です。嘉納治五郎日本体育協会を創立し、国際オリンピック委員会の委員になりました。1912年にストックホルム大会に二人の日本人選手を送っています。柔道は技の追求をもって精神を鍛えるものです。」

    嘉納治五郎は1938年78歳で他界された。

    世界に広まりオリンピックにも入った柔道、嘉納治五郎の精神は世界の人たちに伝えられているのだろうか。