被災の中で

f:id:michimasa1937:20191014094128j:plain

 

 東京の、区の自主避難所にやってきた二人の人が、ホームレスは入れられないと区の職員に言われて避難所に入れなかったというニュースが新聞に出ていた。

 区の職員は、「ホームレス」という言葉は使わなかったようだが、職員から、「記録簿にあなたの住所・名前を書いてください」と言われた二人が、「住所がない」、と言ったことで、それでは避難所に入ることはできないと断られたのだという。ということは「門前払い」だ。二人は暴風雨のなか当てもなく、水のこないところを探してさまよわなくてはならない。

 どんな言葉を言ったのかという、その言葉にとらわれがちだが、問題の深刻さは、心の問題だろう。

 職員はマニュアル通りに、仕事をしている。その「マニュアル通り」が、「型通り」になり、重大な欠落をはらみ、狭量な仕事になるということに心が向かわない。マニュアルの外を思えない、心がその人の心を思えない。

 その後、区は「今後、どう援助ができるか検討する」と言っているそうだから、そこからまた対応が生まれてくるかも知れないが、職員のその時の心のあり方、なぜそう対応してしまったのか、人間、とっさのときに、人間が現れる、それを厳しく調べる必要がある。もし自分ならどう対処しただろうか。

 釜石でラグビーの試合が中止になったカナダの選手が、被災地の中に入って、泥出しやら、浸水した畳を出す力仕事を手伝っているという記事も、新聞に出ていた。

「試合が中止になったことは残念だけど、困っている人を助けることができてよかった。」

と、カナダ選手が言っているという。

 

日本古代の散骨とヨーロッパの樹木葬

f:id:michimasa1937:20191011111630j:plain

 

 万葉集のなかに、散骨に関係した歌がある。

 

巻7、1404の歌

   鏡なす我が見し君を 阿婆の野の花たちばなの 玉と拾いつ

 (鏡のような、私が親しくした君の骨を、阿婆の野の花たちばなの玉のように拾った。)

巻7、1405の歌

   秋津野を人のかくれば 朝まきし君が思ほえて 嘆きはやまず

 (秋津野に、亡くなった君の骨を朝にまいた、君のことが思われて私の嘆きはやむことがない。)

巻7、1407

   こもりくの初瀬の山に霞立ち たなびく雲は妹(いも)にかあらむ

 (初瀬の山に霞が立ち、たなびく雲は、火葬した妹(妻)ででもあろうか。)

 

 土生田純之(はぶたのぶゆき)の研究によれば、記録上の火葬は8世紀から始まっている。火葬した遺骨は珠と見なされ、野山にまかれた。遺骨→霊魂→珠・玉とつながる。散骨は、奈良時代を通じて行われた。散骨される野山は葬送の場、彼岸と此岸の結界だった。

 田中淳夫は、ドイツ、スイスの樹木葬について書いている。

 「ドイツ・スイスは森を墓地とする。ゲルマン民族は森の民だった。市民は長い闘いの末に、森林の所有者である領主や教会から、『誰の土地であろうと、市民は森林の中を自由に歩く権利をもっている』と、『森の自由權』を勝ち取った。中欧樹木葬はスイスで始まり、2014年段階で70箇所の森で樹木葬が行われている。ドイツの樹木葬は、99年間の借用契約を結び、森で行われる。ラインバルトの森が最初で、森の木の根元に遺灰を埋める。それ以外のものを入れることは禁じられている。埋葬した場所はGPSで管理される。樹木葬の森は、最小で25ヘクタールの面積が必要であり、広葉樹が主の混交林が選ばれ、7割以上の落葉樹が茂る。2,013年現在で、埋葬が登録された樹は45,000本。」

 

 僕は墓はいらない。森に眠ることを希望する。樹木葬が実現できないならば、散骨を望んでいる。

 

 

 

 

 

  

アイたちの学校

f:id:michimasa1937:20191005113419j:plain

 高賛侑君は、ぼくが担任するクラスの学級委員長だった。ぼくが大学を出て赴任した淀川中学校の二期生であり最初の卒業生だ。

 彼は「アイたちの学校」というドキュメンタリー映画を監督して制作した。先日、彼が送ってくれた迫真のそのDVDを見たところだ。映画は、戦後の日本の朝鮮人差別と弾圧を、記録映像と証言をもって実に鮮明に伝えている。ノンフィクション作家として、差別されるもの、虐げられるものの声を聴き、その生き様を取材することに人生をかけてきた高君の魂が叫んでいる。

 日本には、全国で、幼稚園から大学までの朝鮮学校は60校ある。ぼくが大阪市の中学校の教職にあったとき、1970年から1992年までの間に、朝鮮中級学校・高級学校との全校上げての生徒交流会を何度か実施して、互いの理解と友情を深めたことが何度もあった。それは実に感動的な交流だった。民族音楽の演奏と民族舞踊、意見発表を通じて、日本人生徒は、これまでのコリアンへの偏見がなんと誤ったものかと気付かされ、民族学校生への敬愛の念をふくらませていったのだった。

 あれから後、国際情勢が関係して、政治はさらに偏狭になり、一部日本人の意識もゆがんだ愛国心に硬化し、ヘイトスピーチや差別行為が露骨に行われるようになった。朝鮮学校生に憎悪のののしりを浴びせ、女生徒の服を切り裂いたりする暴行事件も生じてきた。

 かつて20年に渡って接してきた朝鮮学校が、偏狭な民族主義教育を行うのではなく、日本にとっても世界にとっても役に立つ人間教育を行ってきたことをぼくは知っている。

 ぼくは民族学校を何度も訪問して見てきた。在籍生徒も韓国籍の子もいれば朝鮮籍の子もいるし、日本人もいる。にもかかわらず、日本の朝鮮学校は、日本の中の正当な教育機関として認められず、各種学校の扱いで、教育無償の補助からも疎外されている。それは生徒への差別として直接の被害になる。

 在日コリアンは、韓国籍朝鮮籍の人とがいるが、朝鮮戦争朝鮮半島の南北分断の歴史があってその後の在日コリアンを分断した。そして日本政府は疎外政策を露骨に行ってきた。日本人、日本社会も、コリアンへの偏見と差別を温存させてきた。

 現実を見よ。在日コリアンは、日本社会のなかで、市民として税金を払い、就業し、大きな社会貢献をしてきているではないか。

 政治の世界に現れる問題を、すぐさま在日韓国人朝鮮人への問題へとねじまげ、自己の鬱憤を、在日コリアンに向けてはらそうとする、その精神構造があの関東大震災のときの朝鮮人虐殺、中国人虐殺になり、やがて日本の滅亡に繋がっていったという精神の歴史を忘れてはならない。

 日本をどういう国にするのか、どういう社会にするのか、このままでいいのか。

 映画は日本に問うている。

 映画は1月から各地で上映されている。9月からアメリカでも自主上映されている。

 

     映画についての問い合わせは、<kochanyu@hotmail.com>へ。

 

 

歴史と未来

 

f:id:michimasa1937:20191003103356j:plain

 未来を考える時、過去の歴史を熟考する。

 鶴見俊輔はこう考えた。

 1960年に日米安保反対の抵抗があった。学生、労働者、市民の大デモが国会を取り巻く。それは敗戦のときにあるべきものが、遅れて出てきたものだった。樺美智子さんは女子学生の中で先頭に立って突っこんでいった。そうして殺された。そういう人がいたということを忘れたくない。時の総理大臣は岸信介、彼は戦時中、東條内閣の閣僚だった。朝鮮人の強制連行などにかかわりのある商工次官、軍需次官、そして商工大臣になった。その人物が戦後、総理大臣になった。1945年の敗戦後に、なすべきことがなされず、1960年にそれが現われたのだ。

 1960年、はっきりとした抵抗の形が現われていた。その抵抗の中に市民の自立のイメージがあった。そこに戦後精神の在り処を見る。

 

 安保闘争の後、高度経済成長期がやってくる。それは何をもたらしたか。そして今の日本がある。これから日本にどのような未来が現われてくるか。今の日本の未来に何が見えるか。

 

 香港で市民の抵抗が続いている。中学生までも抵抗のデモの中にいる。この闘争も歴史のもたらすものではないか。抵抗する市民は、未来を見つめている。

 イギリスは1842年、アヘン戦争勝利よって香港を領有した。その後イギリスは、1860年九龍を租借。1898年新界などを租借。そして日中戦争のときに、日本は香港を占領して軍政下におき、1945年日本の敗戦で香港は、イギリスの統治下にもどり、自由貿易港でありつづけた。

 1997年、租借權の99年が過ぎて香港は中国に返還となった。

 中国への返還は、当然の成り行きだが、高度の自治をめざす市民の意識はもとへ戻すことはできない。強大な国家権力の下に屈服することができないから、抵抗は続く。

 一国二制度を堅持すると中国政府は言う。それなら精神の自由も保障されなければならない。

 

思いがけない電話

f:id:michimasa1937:20190930145714j:plain

先日、電話がかかってきて、取ると、昔懐かしい声だ。声を聞いただけでわかった。

学生時代の山岳部の一年後輩、Sだ。

25年前に、ある集会で一緒だったことがあるが、それ以後情報はなかった。

特に親しくしたこともなく、1965年のシルクロード探検では同じメンバーだったが、その後はまた音沙汰なかった。

だが、晩年になると、気持ちも変わってくる。

だから、思い出して、電話をしてみようと思ったのだろう。

電話で、お互いのこれまでの波乱の遍歴と消息を語り合った。

Sは、僕の声がえらい元気だということ、なんのわだかまりもなく、懐かしさがあふれていたこと、それに驚いたらしい。ひょっとしたらもうこの世にいないかも思っていたのかもしれない。

僕の電話番号はどうやって知ったか、この1月に亡くなった山岳部仲間のHの奥さんから聞いたという。

Sは電話の中で、実はあのシルクロードの旅の時に8ミリカメラでいろいろ撮影した、それを最近思い出して編集してDVDにまとめた、それを僕に贈る、と言う。そんなものがあったとは知らず、僕は驚き、ぜひ送ってくれと頼んだ。

それが今日届いた。

 中に手紙が入っていた。

 北山さん、平岡さんの死亡通知など、寂しく、この年ともなれば仕方がないと思います。武田君は元気、竹村君は6年前死亡、久保君は元気、若山君は少し弱っている、糸川君は脳梗塞で歩行と言語不自由、田中君は膵臓がんで昨年死亡。インド・レイラダークからザンスカール山群横断、タクラマカン天山山脈崑崙山脈などを探索した仲間が減っていくのはつらい。

 そう書いて、職歴も書いていた。ペルーリマの日本人学校で三年間勤めたという。

 履歴を見ていて、僕と重なるところもあり、微妙な懐かしさを感じた。

送ってくれたDVD、楽しみだ。何が映っているか、うーん。

 

夕立

f:id:michimasa1937:20190929173328j:plain

 

脚立に上がって、茶色く色づいたナツメの実を採る。

去年はナツメのジャムをつくった。

今年は、そのままデザートに食べている。

少しリンゴのような味がして、おいしい。

たくさん採れれば、今年もジャムにしよう。

ポツリ、ポツリ、

雨だ。西の山が雲に隠れた。

来るぞ、

たちまち夕立ちは、勢いを増し、

沛然と音立てて、家も稲田も、庭の木々も、

一面雨の幕におおった。

ぼくはひさしの下に雨宿りして、雨が止むまで観察した。

小鳥たちはモッコウバラやヒノキの垣根の茂みにひそみ、

カラスは一羽、電線に止まったまま。

少し小降りになった時、モンキチョウが一匹、

トンボが一匹、

まだ降っている雨の中を飛ぶ。

じいさんが一人、

まだ雨宿りをしている。

 

 

 

丸山薫の詩、二編

 

f:id:michimasa1937:20190927102115j:plain

 

 

 丸山薫が、昭和二年に発表した詩。

 

    汽車にのって

 

 汽車にのってアイルランドのような田舎へ行こう

 人びとが祭りの日傘をくるくる回し 

 日が照りながら雨の降る

 アイルランドのような田舎へ行こう

 窓に映った自分の顔を道連れにして

 湖水をわたり トンネルをくぐり

 めずらしい顔の少女や牛の歩いている

 アイルランドのような田舎へ行こう

 

 

    練習船

 

海の好きな少年(子ども)らは

いつかは練習船に乗るだろう

バナナの実る南の島へ

風に翼張り とんでいくであろう

恋することを忘れた一生を

波の間に間に送るであろう

やがてロビンソンのように年老いてから

人形のような乙女をめとるであろう

 

 地方官をしていた父の関係で、丸山は子供の頃、常に転居し、故郷という意識が育たなかった。だから自分は旅する異邦人だと思う。孤独な思いを持って旅をする、けれどいつかは、いい出会いがあるだろうと思う。

 人は常に心に郷愁をいだき、憧れをもって生きる。