東日本大震災

大川小学校の悲劇を考え続ける

1946年、敗戦の翌年、文部省は、戦前の政府による教育支配を反省し、次のような新しい教育指針を出した。 「軍国主義や極端な国家主義の国においては、教育もまた戦争の手段とされてきた。日本は、平和的文化国家になって、教育は本道にかえったのだから、教…

なぜすぐに逃げなかったのか。

<前々日からのつづき> 日中戦争において、もっとも多くの屈強な兵士を送り出した岩手県、中でも北上山地の広大な地域の村々からは多くの兵士が戦場に出ていった。そして兵士たちの多くは戦死した。 その岩手、東北の地に「生活綴り方教育運動」が起きた。…

大川小学校の悲劇から考える

2016年10月の朝日新聞に、東日本大震災の津波で流された石巻市立大川小学校の子どもたちと教員についての記事が載っていた。これは保存しておこうと残していた記事は、大川小学校に通っていた12歳の娘を津波に流された、中学校教員、佐藤敏郎さんの想いを聞…

 震災を詠んだ短歌と俳句

昨年夏の福島の子どもたちの保養キャンプ 朝、新聞を読んでいく。 歌壇・俳壇のページが出てきた。 ああ、今日だから、今日だから、この歌と俳句のなかに、あるにちがいない。 投稿された人の歌と俳句と住所を見ていく。やはりあった。福島の人の歌があった…

 この夏の被災地支援、安曇野保養プログラム

3.11東日本大震災後の、「安曇野地球宿」(安曇野市三郷)を拠点にした活動は、めざましいものがあった。「地球宿」の主である望三郎君は、支援組織「ひかりプロジェクト」を立ち上げ、それに地域の人びとがたくさん参加した。「ひかりプロジェクト」は被災…

 地震の日も報道を続けた河北新報

大震災に遭遇した一つの地方新聞社が、壊滅的な大打撃を受けたにもかかわらず、その日の3月11日も、なんとしてもこの震災を報道しなければならないと被災地を走りまわり、写真を撮り、紙面を作り、自社の機械では印刷できない中、新潟の地方新聞社の機械…

 新庁舎建設より被災地救援を

大震災の後、直接被災しなかった人も呆然とし、被災地の人たちは途方に暮れて気力も失せがちであったそのどん底から這い上がり立ち上がりはじめて10ヶ月、そこには三つの助力を必要とした。 一つは自助、 生きるために自分の出来ることは何か、可能な限り…

 安曇野キャンプをつくった人々

昨夜はキャンプファイアーだった。 小学校の先生をしている加藤さんがプランを立て、地元高校生が進行役をやってくれた。やっぱり若い力だ。五人の女子高生相手に、加藤さんはてきぱき説明をし、準備を整え、ファイアーは盛り上がった。 ひげの大将、等々力…

 南相馬の子どもたちが来た

巨大な柱や梁の黒光りする、壮大な伝統和風建築の民宿だった。 万水川を背にどっしり建つ旅館「ごほーでん」、南相馬の子どもたちの5日間の宿舎だ。 ここからはワサビ田も近いし、犀川もすぐそこにある。 引率・付き添いを含めた35人は、一日バスに揺られ…

 福島・南相馬の子どもたちが来る

8月1日、福島県の南相馬から、子どもたちが安曇野にやってくる。 安曇野市社会福祉協議会が受け入れるキャンプだ。 その準備が続いており、昨日はキャンプファイアーの企画を立てた。 地元の豊科高校と南農高校ボランティアクラブの生徒7人がキャンプファ…

 日本人はチェルノブイリから何を学んだのか

ベラルーシの病院でチェルノブイリ原発における事故放射能障害への医療活動を行なっていた菅谷医師(現・松本市長)は、 日記の1999年の10月1日にこんなことを書いている。 「東海村のウラン燃料加工施設で臨界事故が発生したとの情報が、日本の知人から知ら…

 再びゼロ地点

シンさんの意見は、ぼくをほっとさせるものがあった。 ぼくは、福島の「子どもを放射能から守る福島ネットワーク」と連絡を取りながら「福島の子ども安曇野キャンプ」を企画してきた。 ところが途中の段階から、安曇野の条件は福島のニーズに合わないという…

 菅谷医師の生き方、チェルノブイリとフクシマから未来を

松本市の菅谷市長は、元信州大学の医師であった。チェルノブイリ原子力発電所が1986年4月26日に事故を起こしてから10年後、菅谷は信大助教授の職を退いてベラルーシに渡った。 それから5年半、菅谷医師は、ベラルーシ共和国に滞在して、放射能がも…

 がれきの中に鳥が巣づくり

震災ボランティアから帰ってきたシンちゃんの奥さん・ミオさんのブログをのぞいた。 ミオさんは一度お顔を拝見したことがあるけれど、話したことがない。 インド舞踊をやっておられることぐらいしか知らない。 そのミオさんもシンちゃんと一緒に、震災地でボ…

 「子どもたちを救え!」

被災地の子どもをマイホームに受け入れるホストファミリーに我が家も登録して一月になるが、子どもたちがやってくる段階にまだ至らない状態にある。 「一校ひとくみ:ながの」の運動が、多くの市民に伝わっていないため、なかなかホストファミリーが増えない…

 被災地へ行ってきた大ちゃんの報告

これは3年前、我が家の工房の棟上げをしてくれた大チャン、シンちゃん、タカオさん。 飛騨から安曇野に移住してきて、そこですてきな娘さんに出会い結婚した大工の大介君、我が家の工房の棟上げをやってくれたその人も震災ボランティアに行ってきた。 彼の…

 震災ボランティアと喜び

シンちゃんは、近々また被災地へボランティアで行くという。 5月3日に、自分のブログにこんなことを書いていた。「Y君、もう一ヶ月以上になりますが、今日から気仙沼に行ったようです。 とっちゃん、あみちゃん、4/28に出発。石巻で炊き出ししてたようで…

 辺見庸・『ペスト』・大震災

辺見 庸が1時間ほど語った。(NHK) 彼は、宮城県石巻市出身だった。 「わたしは畏れかしこまり、あふれでる涙ごしにテレビ画面のなか、母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。 生まれ故郷が無残にいためつけられていた。」 辺見はブログにも…

 大震災支援ボランティアに行ってきたシンちゃん

28日、安曇野市の社会福祉協議会主催の第四回ワークショップは、震災支援をテーマにした。 声をかけておいた孝夫さん夫婦、望さん、幸代さん、シンちゃん、厳さん、テルちゃんたちも来てくれて、参加者は全部で30人ぐらいになったが、それにしてもこの大…

 我々の原発責任

「誘惑や脅しに屈した諦めと妥協の結果がたとえば戦争であり、原発事故ではなかったのか。 先の戦争の後、『文学者の戦争責任』が取りざたされた時期があった。ならば『文学者の原発責任』だって発生しよう。 安全神話に加担した責任。スルーした責任。」 と…

 『石棺』に芽吹く生命

大判の教科書の表紙をめくると、両ページ見開きに大きな写真が掲載されている。 すごい迫力の写真だった。「石棺」と呼ばれるチェルノブイリ原発の原子炉だ。 タイトルに「『石棺』に芽吹く生命」とある。 写真家・本橋成一の撮影した写真と文章だった。チェ…

 日本は大きな転機を迎えている

<多くの人が予感し、考えている> 数軒の農家を訪問し、動きをつくれないかと、意見を聞いてまわっている。 「減反をなくし、すべての耕作地を活かして、被災地を救援しよう。 被災地の人たちを受け入れて、農業生産にたずさわってもらい、農業を変えていこ…

 東日本大震災から生まれてくる相互扶助社会

近づく碌山忌 仮設住宅の建設が困難を極めている。あまりに多い被災者の数、役所の建設課の職員が仮設住宅建設を建てるために動いているが、建てる土地が見つからない。 行政の方針では、建設場所は津波が来ないように海から離れて、長屋式平屋の集合住宅を…

 実現するかどうか分からないけれど、やってみる

碌山美術館で さて、どうしていったらいいだろう、といろんな人に会って相談から始めた。 まずは農家の人の意見を聞いてみよう。 秀武さんにウォーキングで会ったので聞いてみた。 「アイデアとしてはいいが、どう進めるかだね。彰久さんは専業農家だから、…

 何ができるか

福島周辺の農地に放射能汚染が進み、収穫時の米に基準値を超える汚染が推計されるところでは今年の稲作はできない。 近々、農水省が作付け禁止地区を発表するということだ。 禁止区域にならなかったとしても、福島の米は売れるかどうか危惧される。 稲だけで…

 動く人たち

二日前、工房の薪ストーブ設置が完成した。屋根に上っての煙突工事は緊張し、命綱を持ちながらの作業だった。ひとりでよくやれたもんだ。緊張感で疲れ果ててしまった。 ★被災地の多くの人たちは、なおも学校の体育館などに毛布を敷いて暮らしている。 秀和さ…

 被災者の避難

毎朝1時間ほど、このところSさんとの会話はもっぱら地震災害のことだ。 春休みの子どもたちが児童館にやってくるまでの間、二人だけまだ寒々とした部屋で向かい合うと、相棒の白髪頭のSさんはたっぷり仕込んできたおしゃべりの種を開陳し始める。 自分で考…

 大地震を超えて、連帯する心

地震の翌日、法事で帰ってきた生まれ故郷・大阪の兄の家で新聞を見た。 読売新聞の朝刊は、全ページが東北巨大地震の記事と写真で埋まっていた。 前日、大地震が発生したとき、ぼくは特急「しなの号」の車中にいて、座席に座って眠っていた。 突然車内放送が…