2014-11-01から1ヶ月間の記事一覧

金子光晴の詩「コットさんのでてくる抒情詩」

金子光晴の家族が疎開した富士山麓、山中湖畔での生活、その村には外国人も疎開してきていた。金子光晴一家の疎開生活は昭和18年10月から昭和21年7月まで約3年、この間に息子へ召集令状が来て、光春夫婦は必至に抵抗し、軍隊への入営を免れて、昭和20年8月1…

  金子光晴の詩「富士」

あの戦争の時代、召集令は、軍から警察へ、警察から役所へ伝えられ、役所の兵事係が召集令状を当該の家に持ってきた。令状は本人に渡されたが、本人不在の場合は家族に手渡された。召集令状は紙の色が赤かったから庶民はそれを「赤紙」と呼んだ。令状には召…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <10>

斎藤喜博の学校づくりで展開された授業の中の子どもたち、その生き生きとした美しい姿は写真集にもなった。 斎藤喜博は1911年生まれ、終戦のときは34歳だった。小中学校の教師として戦後を迎えた斎藤は民主主義教育をつくるために、群馬県教職員組合の文化部…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <9>

戦争が終わったとき、愛知県蒲郡出身の金沢嘉市は37歳だった。後に「ある小学校校長の回想」(岩波新書)を著した金沢は、戦時中の自らをふりかえってこう書いている。 「『鬼畜米英』も教えた。『討ちてしやまん』も教えた。『大君のへにこそ死なめ』も教え…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <8>

無着先生は3年間、この生徒たちを教えた。そして彼らを送り出した。その卒業式で、藤三郎は代表として答辞を読んだ。その出だしはこうであった。 「私たちが中学校にはいるころは、先生というものをほとんど信用しないようになっていました。私たちは昭和1…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <7>

無着成恭先生はこう書いている。 「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方に求めたということです。(「山びこ学校」に収められた)綴方や詩は、出発点として書かれたものです。一つ一つが問題を含み、一つ一つが…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <6>

「山びこ学校」の生徒、佐藤藤三郎たちが二年生になったとき、社会科の勉強で農村調査を行なっている。山元村では米が足りなかった。村の人口は二千人ぐらいで、食べる米の自給率は三分の二程度、三分の一は他から買ってこなければならない。クラスの生徒43…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <5>

戦時中弾圧を受けていた生活綴方運動の教員たちは、敗戦と共に運動復活に向けて動き出す。その一つの結晶が「山びこ学校」だった。 「先生はにこにこしながらこんなことを言いました。 『みなさんが利こう者になろうとか、物知りになろうとか、頭がよくなる…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <4>

白鳥先生は、二学期になって48名の子どもたちを8グループに分け、グループはそれぞれ机を三つくっつけて周囲に座る形態に変えた。一つの班8人は向かい合って話し合いができる。 9月8日 リンゴ盗難事件が起こった。文江、光子が持ってきたリンゴがだれかに盗…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <3>

<黒豆を収穫した> 職員会議の決定を聞いた6年松組の子どもたちは、討論を始めた。クラス自治会は活発に動きだしている。白鳥邦夫先生はこう書いている。 「私には伝達・提案・発言の義務や自由はあるが、議決権はなく、指揮権発動も自分で封じている。私…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <2>

1945年8月15日、白鳥邦夫は海軍経理学校の生徒であった。その日、彼は日記にこんなことを記している。 「12時、大元帥陛下の玉音を拝す。聖断ついに米英ソ支四カ国のポツダム宣言を受諾されたという。畜生!と思えど、聖断の一語が身を縛す。‥‥悲しみと憤り…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <1>

軍国主義に徹しているように見えた人が、敗戦後ころりと変って、民主教育を積極的に始めた。それを不信や懐疑の念で言われることがある。けれどその変化は少しも不思議なことではない。むしろ変って当然で、軍国主義体制のなかで戦争遂行に向かっていたその…

 加害の傷、被害の傷

南の空を灰色と黒い雲が地表まで垂れ込めていた。見るからに雲の下は嵐を予感させた。怪しげなエネルギーを持った雲の様だ。 雲に覆われている地帯は松本市の西部山岳地帯、山形村、波田地区から、朝日村、梓川、安曇地区、その奥に乗鞍岳、穂高山群が静まっ…

 この世相だから岩波書店『世界』を読む

最近はあまり本屋へ行かない。新刊本を買うのは金額が張るから、どうしても購入を控えてしまう。そこでぼくはネットで古書籍を取り寄せるか図書館を利用する。 最近、社会や政治の状況がどうも気にかかる。政治と国民意識の変化、ナショナリズム、戦争の危険…

 この国の廃屋、廃校、廃村 <2>

奈良県下市町の広橋峠からさらに奥に入ると丹生の地がある。そこに中学校の廃校があった。13年前のことである。子どものいない運動場に草が生い茂る。校舎の壁をツタが這い上り、二階の教室の窓から侵入していた。木造校舎のスタイルは明治以来の学校建築…

小さな生き物たち

7日は立冬、すでに霜も降り、山は雪化粧をした。ついつい後手後手に回ってしまう畑の作業、黒大豆の畑に行ってみたらすっかり枯れて、2割ほどのさやがはじけ、豆が飛び出して地面に落ちている。おそかりし由良の助、もっと早く収穫すべきだった。昨日と今…

 この国の廃屋、廃校、廃村 <1>

伊賀から津まで伊賀越えをしたことがあった。ひとり芭蕉も歩いただろう道を黙々と歩いていくと、山の中に廃屋があった。人が住まなくなって何年たっているのか、かつて人が住んでいた名残りをあちこちに残していて、当時のカレンダーが壁に残っており、火の…

 ひたすら無念

今朝は霧が深かった。犀川に発生する川霧が野を覆う。ランと歩いていくとランの黒いしっぽに霧の水滴がついて白くなる。霧の向こうでランを見つけた小学生の女の子三人が、十字路で立ち止まって、 「ランちゃんだあ、ランちゃーん」 と叫んでいる。声を聞いて…

佐々木修さん個展「雪稜賛歌」

佐々木修さんの絵画展の今日が最終日になるということで、午前中、松本市内まで行ってきた。 佐々木さんは、我が家から山のほうへ、田中の道を300メートルほど行ったところに住んでおられる。今日が最後になる一週間の個展は、松本市中町通りにある古民家を…

 カフェがほしい、

<前穂高東壁 その下が奥又白 蝶ヶ岳から> コーヒーを飲まない日は寂しく、たっぷり飲んだときは満ち足りた気がする。コリコリとコーヒー・ミルを回して、香りをかぎながらお湯をそそぎ、たっぷり大きなマグカップにコーヒーを淹れる。いっとき家内は生豆を…