2014-01-01から1年間の記事一覧

 日本とドイツ、戦後の変遷 <4>

来年は戦後70年。 第二次世界大戦を戦ったヨーロッパ・アジアの国ぐにでは、いろんな記念行事も開かれることだろう。そのとき戦勝国と敗戦国では、戦後どのように国づくりをしてきたか、その国の歴史認識がはっきりと現れる。すでにその歴史認識は国づくりに…

 消えた子どもたち、生き残っている子ども社会   

12月22日に放送されたNHKスペシャル「調査報告“消えた”子どもたち――届かなかった“助けて”の声」ドキュメンタリーを観た。 母親に18年間自宅軟禁されていた子どもがいた。手足を縛られることもあった。お風呂に入らせてくれるのはよくて5カ月に1回、ひど…

 クリスマスパーティは

写真:家内がつくった5人のサンタさん。雪の上に置いたら、北欧の感じがよく出た。 日曜日の夜、午後6時から日本語教室のクリスマスパーティだった。 公民館に集まったのは20数人。 生後2ヶ月の赤ちゃんも参加して、にぎやかなパーティになった。中国人…

 日本とドイツ、戦後の変遷 <3> 

20年前、戦後50年の節目に出版された「戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか」(朝日選書)には、六人の学者・研究者の論考が収められていた。 そのなかから一つの文章。 「ドイツの地方裁判所が元ナチス親衛隊員・強制収容所所長シュヴァムベルガー…

 日本とドイツ、戦後の変遷 <2>

なんだか雲行きが怪しいと思う。この予感はなんだろう。アベノミクスは経済経済と連呼する。だが、その底を流れているものがある。もっと異質なもの、この国の何かが変質し始めている予感的なもの。 ぼくが「予感」という言葉に出会ったのは中学生のときだっ…

 日本とドイツ、戦後の変遷 <1>

衆議院議員選挙が過ぎ去り、ひとしお寒さが身に染む毎日だ。あの選挙という儀式は、むなしいものだった。むなしい儀式のつけは今後の日本に露骨に現れてくる。結局民衆がそのつけを負う。 毎日、寒い日が続く。朝は氷点下9度の日もある。今朝はマイナス3度ぐ…

[日本社会] ヘルマン・ヘッセとトーマス・マン、その影響を受けた若者たち

同盟国のドイツと日本は、1945年相前後して敗戦を迎えた。戦争の時代と戦後の時代を文学者はどのように生きたか。ドイツ人のトーマス・マンとヘルマン・ヘッセ、フランス人のロマン・ロラン。同時代を生きていた日本人の若者たちにどのように影響を与えただ…

 トーマス・マン、北杜夫、小塩節

昨日の会津のまっちゃんのコメントへの返事、そのつづきです。 北杜夫は、旧制松本高校では小塩節さんの三年先輩でした。小塩節さんは、ドイツに留学したとき、チューリッヒ郊外のトーマス・マンの家も訪れ、夫人と親しくなったと書いています。 トーマス・…

 トーマス・マンの生き方 

ドイツの作家、「魔の山」の著者トーマス・マンは、ファシズムに限らず、自由を脅かすあらゆる勢力に抵抗した。1933年、ヒトラーが政権を握ると、トーマス・マンはスイスのチューリッヒに亡命し、ナチズムに対抗して闘争を開始する。意気地もなくナチスに協…

 ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)が生まれてくるこの国の怪しさ

日本の国はじわじわと変質しているのか、それとも本質的には変わらず、根底に潜んでいたものが増殖を始めているのか。現れの一つがヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)。インターネット右翼(ネトウヨ)が拍車をかけていると言われているが、これまで普通の人…

[日本社会] 秘密

変な形のニンジン わたしの秘めごと 父様に〜、 つげぐちする人 だれもいない〜 若いころ歌ったロシア民謡「黒い瞳の」秘めごと、男の子と女の子との間の秘め事。 内緒のこと、隠しごと、知られたくないこと、言いたくないこと、どんな人にも秘密がある。心…

 ノーベル平和賞を受賞したマララさんのスピーチを授業に

今朝、ノーベル平和賞を受賞したマララさんの、ノルウェー・オスロでのスピーチの要旨が、新聞に掲載されていた。(朝日) スピーチの英語文と、日本語訳が、並んで、一面を埋め尽くしている。マララさんのまっすぐな心情が、スピーチにあふれている。マララ…

 「十七音詩」<3>

暮れ方かかってきた電話の声は、すっかり年老いて発音があいまいになった八重さんだった。 「夫、木村が亡くなりました」 「ああー」 思わず受話器をもって叫んでいた。金剛山麓の村の古家を貸してくださった木村さん、とうとう亡くなられた。ガンを患い、何…

 「十七音詩」<2>

「十七音詩」37号(昭和51年1,2月号)に掲載されていた「無名兵士の手帖 ――沖縄戦の記録」(小寺勇)を部分的にここに抜粋する。()内は吉田による俳句の訳・解説。 「無名兵士の手帖 ――沖縄戦の記録」(小寺勇) 昭和19年11月5日、那覇港に上陸し、沖縄本…

 「十七音詩」<1>

書棚を整理していたら、「十七音詩」という俳句の同人誌が十数冊出てきた。昭和50年、51年に発行されたものだ。同人誌は木村さんが購読しておられたもので、2001年から2005年まで住んだ奈良の金剛山麓の古家にあった。古家は木村さんから借りた築70年の家で…

 桃太郎の話

12年前、中国武漢大学で大学院生の授業をしていたとき、女子学生の王さんがこんなことを言った。 「日本の桃太郎の話は、鬼が島へ侵略した話です」 そういう見方は日本で、1970年代の部落解放教育運動のなかでぼくは聞いたことがあった。そのときは、「お…

 福島原発被災者を全国で受け入れる保養プロジェクト交流会

写真:夏の「安曇野ひかりプロジェクト」の保養ステイキャンプ 『安曇野ひかりプロジェクト』事務局の大浜さんからメールが来た。大浜さんは「どあい冒険くらぶ」の隊長でもある。 「県内の保養実施団体の『子どもたちを放射能から守る信州ネットワーク』の…

 わが安曇野ビジョン<2> 学校林、公園林をつくろう

都会の子どもは自然が乏しい、田舎の子どもは自然がいっぱい、という常識は当たっているか。 安曇野市民憲章は、「美しい自然や豊かな歴史・文化に恵まれたまち」で、「わたしたちは、ここに生きる幸せと誇りをもって」と謳っている。ここで育つ子どもたちは…

 わが安曇野ビジョン<1> 歩道と自転車道をつくろう

安曇野市には「市民憲章」が制定されている。 「安曇野市は、北アルプスの麓に広がり、美しい自然や豊かな歴史・文化に恵まれたまちです。 わたしたちは、ここに生きる幸せと誇りをもって、お互いに尊重し合い、より住みよいまちをつくるために、この憲章を…

 眼鏡

写真・チロルの村で 老眼鏡の一部がこわれた。めがねを支えるのは両耳と鼻梁の上の部分、その鼻に当てて支える二つの小さな部品の片方が取れてなくなっている。日曜日の夜の日本語教室で気がついた。この老眼鏡は、小さな文字を読むときのために、スーパーマ…

金子光晴の詩「コットさんのでてくる抒情詩」

金子光晴の家族が疎開した富士山麓、山中湖畔での生活、その村には外国人も疎開してきていた。金子光晴一家の疎開生活は昭和18年10月から昭和21年7月まで約3年、この間に息子へ召集令状が来て、光春夫婦は必至に抵抗し、軍隊への入営を免れて、昭和20年8月1…

  金子光晴の詩「富士」

あの戦争の時代、召集令は、軍から警察へ、警察から役所へ伝えられ、役所の兵事係が召集令状を当該の家に持ってきた。令状は本人に渡されたが、本人不在の場合は家族に手渡された。召集令状は紙の色が赤かったから庶民はそれを「赤紙」と呼んだ。令状には召…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <10>

斎藤喜博の学校づくりで展開された授業の中の子どもたち、その生き生きとした美しい姿は写真集にもなった。 斎藤喜博は1911年生まれ、終戦のときは34歳だった。小中学校の教師として戦後を迎えた斎藤は民主主義教育をつくるために、群馬県教職員組合の文化部…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <9>

戦争が終わったとき、愛知県蒲郡出身の金沢嘉市は37歳だった。後に「ある小学校校長の回想」(岩波新書)を著した金沢は、戦時中の自らをふりかえってこう書いている。 「『鬼畜米英』も教えた。『討ちてしやまん』も教えた。『大君のへにこそ死なめ』も教え…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <8>

無着先生は3年間、この生徒たちを教えた。そして彼らを送り出した。その卒業式で、藤三郎は代表として答辞を読んだ。その出だしはこうであった。 「私たちが中学校にはいるころは、先生というものをほとんど信用しないようになっていました。私たちは昭和1…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <7>

無着成恭先生はこう書いている。 「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方に求めたということです。(「山びこ学校」に収められた)綴方や詩は、出発点として書かれたものです。一つ一つが問題を含み、一つ一つが…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <6>

「山びこ学校」の生徒、佐藤藤三郎たちが二年生になったとき、社会科の勉強で農村調査を行なっている。山元村では米が足りなかった。村の人口は二千人ぐらいで、食べる米の自給率は三分の二程度、三分の一は他から買ってこなければならない。クラスの生徒43…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <5>

戦時中弾圧を受けていた生活綴方運動の教員たちは、敗戦と共に運動復活に向けて動き出す。その一つの結晶が「山びこ学校」だった。 「先生はにこにこしながらこんなことを言いました。 『みなさんが利こう者になろうとか、物知りになろうとか、頭がよくなる…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <4>

白鳥先生は、二学期になって48名の子どもたちを8グループに分け、グループはそれぞれ机を三つくっつけて周囲に座る形態に変えた。一つの班8人は向かい合って話し合いができる。 9月8日 リンゴ盗難事件が起こった。文江、光子が持ってきたリンゴがだれかに盗…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <3>

<黒豆を収穫した> 職員会議の決定を聞いた6年松組の子どもたちは、討論を始めた。クラス自治会は活発に動きだしている。白鳥邦夫先生はこう書いている。 「私には伝達・提案・発言の義務や自由はあるが、議決権はなく、指揮権発動も自分で封じている。私…