かの日、夜行列車で

 

 1950年代後半ごろ、日本は登山ブームで湧いていた。ぼくは大学山岳部員で、大学が夏休みに入ると、毎年、穂高岳山群や剣岳山群で 一週間合宿し、続いて北アルプスを縦走した。登山計画は、お盆の前後は列車も山も混むから避けていた。

 ところが8月10日過ぎて、山に行く計画が持ち上がった。ぼくらは、食料、装備をザックに詰めて、夜行列車に乗るために夕方大阪駅に行った。

 駅のコンコースに入ると、そこは夜行列車に乗ろうとする人であふれ、熱気が満ちている。乗客の群れは、駅員の指示でコンコースに列を作った。午後9時ごろ、改札口が開かれ、群衆は並んで続々と11番ホームへ上がっていった。ぼくたちも列の後尾についてホームに上って、客車の入り口に当たる位置にぎっしりと並んだ。

 午後10時頃、富山行き夜行列車がホームに入って来た。蒸気機関車は蒸気を噴射し、乗客の群れの前で止まると、乗客は押し合い圧し合い、列車の中に突入する。座席を確保し、荷物を網棚に載せる。

 しんがりの方に並んでいたぼくらは、車内に入れず、乗降口を上がったデッキの、連結器の前に荷を置いた。デッキも人で詰まった。車内をのぞくと、通路は座席に座れなかった人たちがギッシリだ。

汽笛を鳴らして汽車は動き出した。ぼくらの周りに立っている人たちは、若い女性だった。話しかけると、北陸地方の農村から出てきて、大阪の工場で働いている、お盆休みで故郷へ帰るのだと言った。若い労働力を低賃金で提供してきた女工たちの帰省だ。

 ぼくは山岳部の仲間に、

 「こんな状態で一晩立ち続けるのか。なんとかできないか。」

と声を掛けた。

 「座っている人の間に、もう一人座ることができないか。」

 そこでぼくらは実行に移した。人をかきわけて車内に入り、座席の通路側のひじ掛けに足をのせて立ち上がると、片一方の腕で網棚を持ってバランスを保ち、車内に響き渡る大声で叫んだ。

 「座っている人にお願いします。二人座席のところを三人掛けにしてください。」

 けれど何の反応もない。そこでぼくは座席のひじ掛けの上を渡って、中の方へ進み、もう一度叫んだ。

 「三人掛けしてくださーい。」

 座っている人の中から、椅子の端に一人座れる空きをつくってくれる人が出てきた。

 その時、

 「私らは、長い時間並んで待っていたんですよ。三人掛けは無理です。」

という声が上がった。それを聞いて、ぼくらはそれ以上の呼びかけはやめた。

結局何人かは座ったが、通路はまだまだ立つ人で詰まっている。

 そこでぼくらは座席の下を寝床にすることにした。キスリングザックは連結器のところに置いたまま、体ひとつで、座席の下に潜り込む。すると他の立っている人たちの中からも、それにならう人が出てきた。それでいくらか立錐の余地もない状態は緩和したように思えた。

 ぼくは座席下で眠りに入った。眼が覚めたら列車は富山に近づいていた。

 多くの人たち、女工さんたちも結局一晩、立ったままだった。