田部重治の紀行文

前穂高岳 北尾根(息子の拓也撮影) 田部重治の紀行文。 大正14年の上高地は秘境だった。 「上高地の美は、雨によってことに発揮される。 雨の上高地は、翠緑の渓谷をにわかに黄金のいろどりに変ぜしめる。どういうふうにこの渓の物象が移り変わっていくか、…

山の声、山の香り

1941年(昭和16)、浦松佐美太郎は、「たった一人の山」を著した。 「雨の激しい日、山へ行く人の通らない小屋は、さびしく取り残されている。囲炉裏に薪をくべて、イワナの焼ける匂いを嗅いでいるのも楽しい。窓のすき間を通して、冷え冷えとした山の空気が…

穂高星夜

大学山岳部のときも社会人になってからも、山のパートナーは北山君だった。ぼくより一年上、彼はもうこの世にいない。二人で登攀した数々の山がよみがえる。 学生の時、北さんが「穂高星夜」という本を貸してくれたことがあった。大正14年の版、著者は書上(…

息子が穂高に登ってきた

息子が兵庫から夜行バスで上高地にやってきて、松本に住んでいるオジャ君と二人で奥穂高岳に登ってきた。 梅雨の晴れ間の快晴に恵まれ、涸沢カールのヒュッテ前のキャンプサイトにテントを張り、ザイテングラードと呼ばれる岩稜の登山道を登らず、残雪の多い…

雪嶺を見よ

昨日は朝からみぞれが降り、午後にはボタン雪に変わって夕方まで降った。その前には温かい日よりが数日あって、虫たちが、 「春だよ、春だよ、温かくなったよ」 とばかり、どこからか現れ、 イトトンボ、モンシロチョウ、ユスリカ、クモ‥‥、 お前たちはいっ…

「ネパールの碧い空」4

安曇野烏川渓谷緑地 1989年、アジア協会アジア友の会という団体を知った。その団体は、ネパールでの植林と盲学校の建設、井戸掘りなどの活動を行っていた。 友の会はボランティアを募っていた。ネパールの森がどんどん消滅している。このままでは、ヒマ…

山岳雑誌「ケルン」

今から81年前、昭和13年(1938年)6月、月刊誌「ケルン」が60号で廃刊になった。 朋文堂から出ていた月刊の山岳雑誌だった。昭和8年から5年間、60のケルンを積みかさねてきた「ケルン」も、大陸への侵略を推し進める戦時の風雲に倒された。 ケルンという言葉…

ヒュッテ・コロボックル 4

手塚さんは、頼まれて一人の青年を山小屋に引き受け、三か月間一緒に暮らしたことがあった。 その青年は高卒後就職したが、数か月で会社を辞め、仕事を続けることができなかった。彼は学校時代、不登校だった。 青年は、山小屋に住んでも特に何をするでもな…

ヒュッテ・コロボックル  3

手塚さんは亡くなり、今は息子さんが跡を継いでいるのだろう。息子さんの名は確か貴峰(たかね)だった。随想のなかに、一歳の貴峰ちゃんが夜中に急病になり、背中におんぶして雪の降る山道を下って病院に行った話が出ていた。あれから何年になるんだろう。…

ヒュッテ・コロボックル   2

(写真:バラクラ・イングリッシュガーデン) 山小屋コロッボクルの中はこじんまりして、ちょうどお昼時が終わってコーヒータイムになっていたから、三人のスタッフがまめまめしく立ち働いていた。コーヒーを淹れていた男性がこちらを見た。ひょっとしたら手…

ヒュッテ・コロポックル

蓼科からの帰り道は、霧ケ峰からビーナスラインを美ヶ原に向けて尾根道のドライブをし、松本に下ることにした。 霧ケ峰の車山の肩には手塚宗求さんのヒュッテ・コロポックルがある。手塚さんは健在なりや。もうかなりのお年だったから亡くなられたかもしれな…

 山で道に迷ったら「十箇条」

五頭連峰で遭難したとみられる、新潟市の渋谷さん(父)と小学1年の長男・空くん。2人は5月6日の朝、「下山する」と家族に電話した後、連絡が取れなくなっている。大規模な捜索が行なわれているが、一週間になるが発見できない。父と子の山がこんなことにな…

 昭和15年の冬、最後の登攀

高須茂が木村殖とおもしろい話をしている。昔のことだが、「日本山河誌」(角川選書)のなかにある話。高須:「昔話だが、上高地の小梨平事件というのがあったね。昭和6年だったろう? ぼくが学校卒業する前の年だ。」 「小梨平事件」というのは、上高地の…

 山靴の話

浦松佐美太郎は、青春時代スイスで過ごした。 1901(明治34)年生まれ。大正時代から昭和の初めにかけて、ロンドンに留学した浦松はアルプス登山に熱をいれ、西山稜からのウェッターホルン初登頂に成功している。ぼくは彼の随筆「たった一人の山」を、登山に…

 上高地開山祭

上高地の開山祭に行ってきた。ピーカーン最高の晴れ、気温も上がった。安曇野から梓の谷に入り、沢渡に約1時間で着いた。バスターミナルに車を置いて、バス乗り場に行くと上高地行きの8時台のバスは出た後だった。料金を調べると、タクシーに4人乗ればバ…

 27日は上高地の開山祭

上高地の開山祭が今月27日にある。これまで開山祭もウェストン祭にも行ったことがない。洋子が、行こうかと言う。心が動き、行くことにした。 初めて上高地に入ったのは、1955年の18歳の夏だった。 その前年の1954年、高校の学級担任だった野村先生に連れら…

佐々木修さん個展「雪稜賛歌」

佐々木修さんの絵画展の今日が最終日になるということで、午前中、松本市内まで行ってきた。 佐々木さんは、我が家から山のほうへ、田中の道を300メートルほど行ったところに住んでおられる。今日が最後になる一週間の個展は、松本市中町通りにある古民家を…

 蝶ヶ岳に登ってきた<4>

大木は真下から見上げるのもいい。大木を前にするとつくづく尊敬の念を覚える。 秋は紅い実がよく目にはいる。こんな小さな植物にも紅い実がなっていた。 碧空に白雲。秋の雲はさすらいびと。 ケイ君は甲虫を見つけるとカメラを向けていた。ハンミョウを探し…

 蝶ヶ岳に登ってきた<3>

窓の外が明るくなっている、5時半ごろだ。日の出は6時過ぎだから起きることにした。一夜、寒くはなかった。 外に出ると、東の空が紅く染まっている。御来光を拝み、カメラに収めようとする人たちのシルエットが稜線に並んでいる。ぼくは反対側の西の斜面に行…

 蝶ヶ岳に登ってきた<2>

蝶ヶ岳ヒュッテは、稜線の真上にある。蝶ヶ岳という最高地点は、ヒュッテのすぐ南の、いくぶんヒュッテより高い位置にあるが、ヒュッテの北側に隣接して盛り上がっている別のところに三角点があり、それらを含むなだらかな砂礫の台地が蝶ヶ岳だった。ハイマ…

蝶ヶ岳に登ってきた

10月18日 秋晴れの最高の天気の中、蝶ヶ岳に登ってきた。大阪・神戸からやってきた拓也たち3人と地元のケイ君、合わせて5人、土曜日の9時半、車で出発して三俣の登り口から山道に入った。「熊出没注意」の立て看板がある。ぼくはザックに熊よけのカウベルを…

 御嶽山噴火

いきなりの噴火だ。紅葉も始まろうかという絶好の秋晴れの日に噴火、登山客も多くいた。命からがら逃げただろうな。 御岳山は名古屋圏に最も近い3000m級の山で、とっつきやすい。 5月の積雪期に単独行で、王滝から登ったのは、1960年ごろだった。屋根まで雪…

 蝶ヶ岳への道

常念岳頂上で、昨年夏 「大滝山がいいよ」 望君からそんなメールが来たのは、この夏、ぼくが息子と蝶ヶ岳に登ってくるかという計画を彼が聞いたからだった。登山には圭君も加わって、3人で登ることになっているが、望君がどうして大滝山を勧めるのか直接聞…

 ぶらぶら白馬

朝から白馬へ行く。昨日、塩の道ウォークに行かなかったから、今日は二人で白馬を歩こうと、新しい運動靴を履いて、防寒着をザックに入れて。 ちひろ美術館前を通り抜け、大町に入り、木崎湖前から白馬へ一直線。道路が昔と違ってりっぱになっていた。長野オ…

 鹿島槍ヶ岳と鹿島のおばば

1961年春に、北さんと二人、鹿島槍ヶ岳の東尾根を登攀した記録(山日記)には、鹿島部落の「狩野のおばば」のことも書いていた。ぼくは23歳、おばばは80歳を超えていただろう。 鹿島部落は、大町から乗り合いバスに揺られて、鹿島川沿いのいちばん奥にある、…

人間の耐寒性

たくさんの被害を撒き散らして台風は北の海に去った。そのあとに、大陸から流入した寒気は真っ白に雪をアルプスにもたらしていた。白馬連峰から爺が岳、燕岳そして常念岳も積雪。 昨日の教室は体が冷えた。午後5時に学校を出ると、車の暖房をつけて約40分間…

 峠越え

歩いて峠を越え、旅をすることを現代人はしなくなった。車に乗って峠を越える旅人は、峠に着くと車から降り、景色を眺めていくばくかの感慨を胸に抱き、またさっさと車に乗って下っていく。 歩いて登っていた時代の人たちは、峠に着くとほっと安堵の一息、し…

 一冊の詩集

若かったころ、キスリングザックの大きなポケットに、ぼくは一冊の詩集を入れて、山に向かった。キスリングザックは分厚い帆布でつくられた登山用の大型ザックで、ザックの両側に大きな深いポケットが出っ張っていた。 そのころベトナム戦争がつづいていた。…

 続・冠松次郎と黒部

「黒部の上の廊下、下の廊下、奥の廊下」の「廊下」というのは、黒部の深い谷の、絶壁が両岸にそそりたち、あたかも山の中の廊下のようになっているところのことを指す。「上の廊下、奥の廊下」は平(だいら)という所より上流、すなわち今では黒部湖より上…

 冠松次郎と黒部

23歳のときから4年間、夏に山のパートナー北さんと二人で黒部川の上の廊下から源流までを完登することに挑戦した。一回目の夏は、針ノ木峠を越えて黒部川に下り、そこから上の廊下を登る。まだ黒四ダムができていなかった。上の廊下には道はなく、両岸が絶…