大川小学校の悲劇から考える

 

 

 2016年10月の朝日新聞に、東日本大震災津波で流された石巻市立大川小学校の子どもたちと教員についての記事が載っていた。これは保存しておこうと残していた記事は、大川小学校に通っていた12歳の娘を津波に流された、中学校教員、佐藤敏郎さんの想いを聞き書きしたものだった。津波で娘を失った佐藤さんは、教職を去り、なぜこのような悲劇が起きたのかを究明し、語り部を育てる活動を始めた。 

 大川小学校の犠牲者は、児童74人、教職員10人。

    大地震の直後、大川小学校の子どもたちは津波から避難するために校庭に出た。すぐさま避難するかと思えど、まったく動かず、子どもたちは50分ほど待機して避難を開始したが、川の橋のたもとで津波にのまれてしまった。

    なぜこのような悲劇が学校で起きたのか、佐藤さんは調べるも真相がわからない。

 「安全なはずの学校で、あの子らはなぜ死ななければならなかったのか。いまだに分からないままなんです。市教育委員会は生き残った子どもたちから聞き取りをしたにもかかわらず、その記録を破棄していた。その後第三者の検証委員会が調査したものの、真因に迫ろうとしたようには見えません。

 生き残った子どもたちによると、校庭の裏にある山に逃げさせようと、何度か口にした先生がいたそうです。前任校で防災マニュアルを改訂し、地域の自然教室で教えるなど防災意識の高い人でした。だが『山へ』というその先生の声は、みんなの意思にはなりませんでした。生き残ったのは『山へ』と叫んだ先生だけでした。その先生は今も教壇に立つことはできず、家にこもりがちだと聞きます。せっかく生き残ったのに、彼が不幸になってはいけないですよ。彼はあの日からずっと口をつぐんだまま、震災直後に一度だけ遺族説明会に来て謝罪してくれたんですが、その説明は残念ながら矛盾だらけでした。もしかしたら、本人は真相を話したくても、止めようとする外部の力が働いているのかもしれません。彼が再び前に進めるように支えるのが市教委の役割ではないですか。真相解明をめぐっても、市教委は責任逃れの組織の言葉ばかりで、子どもたちの命の話にならないんです。あのとき、子どもたちはどんなに怖かったか、先生たちはどんなに悔しかったか。先生たちは必至だったと思います。もう一人、覚悟を持って『山へ』と言えていれば、みんなで意見を出し合えていれば‥‥。それができなかった。いろんな意見が出るのは当然です。だが、違う意見は批判と取られてしまう。自由に語り合うということがしづらい、そんな日常の延長に、あの時の校庭はあったのだと思います。

 校舎は震災遺構として保存されることが決まりました。残したいと最初に声を上げたのは、間一髪で生き延びた当時11歳の男の子でした。その子は妹、母親、祖父を亡くしています。」

 

   ここから我々の現実に潜むものを、この日本を考えていきたい。