核兵器使用の危機

 

 プーチンが、核兵器の使用をにおわせてきたということは、その使用があり得るということである。

 1999年、20世紀最後の年に、読売新聞社は「20世紀 どんな時代であったのか 戦争偏・日本の戦争」という書を出版した。そこにソ連時代の核兵器開発とその後の歴史がつづられている。

    1998年7月、カザフスタンセミパラチンスク核実験場に記者は入る。そこは日本の四国とほぼ同じ広さがあり、のどかな草原に羊や牛がのんびり草を食んでいた。核実験の爆心地に入ると、放射線測定器はピーピーと鳴り出し、数値がどんどん上がる。とうとう数値が振り切れた。そこには「立ち入り禁止」の看板さえ無かった。

    ソ連最初の原爆実験が行われたのは、1949年8月29日、半世紀前だ。実験の跡地は丘の麓のくぼ地。この上空で原爆が炸裂したのだ。黒ずんだ土、噴き上げられた丸い小石、溶けてガラス状になった石、半世紀たった今も、すさまじい放射能の残留だ。

    この時の実験では1300頭の動物が使われた。そして爆発後わずか1時間~5時間の間に、兵士が来て作業をした。この地では地下核実験も行われた。その地下には今もかなりの放射能が残っている。

    今その地に、6家族20人が住みつき、家畜の放牧をして牛乳を売っている。

 かつて、その地方は豊かな恵みをもたらす遊牧民の地、その地が今も放射能の後遺症で苦しむ人がいる。実験場近くの村を訪れた。人口2000人、診療所の医師は言う。

 「毎日2人が、ガンで死ぬ。3人に一人が病気や障害を持って生まれてくる。」

 近くの村でも、1953年にソ連時代の水爆実験が行われた。その時、40人が疎開させてもらえず、村に残されて被曝した。その人たちはその後全員死亡した。

    旧ソ連の核秘密都市チェリャビンスク65では、1957年「ウラルの核惨事」と呼ばれる爆発で、三万人以上が被曝している。河川や沼に廃液を投棄し、住民50万人が被曝した。

    このように核実験場は、少数民族の居住地が多く使われた。

    ソ連崩壊後、その地はカザフスタン国になり、核をロシアに渡して、非核を達成した。しかし放射能被害は大きな問題として残ったままだ。カザフスタン核兵器反対の運動家は、「ロシァと話をつけなければならない」と言っているという。

    核実験は、もろに民族差別、人種差別の場であった。