なぜすぐに逃げなかったのか。

 

<前々日からのつづき>

 

 日中戦争において、もっとも多くの屈強な兵士を送り出した岩手県、中でも北上山地の広大な地域の村々からは多くの兵士が戦場に出ていった。そして兵士たちの多くは戦死した。

 その岩手、東北の地に「生活綴り方教育運動」が起きた。綴り方教育は、子どもたちに過酷な生活現実をよく見て文章につづらせ、それを発表して子ども同士で話し合い、現実を見る目を育てることを目指した。戦時下ではその教育と指導者は、支配権力者によって厳しく弾圧された。

 戦後、「生活綴り方教育運動」は再興し、全国各地ですぐれた実践が生まれた。山形県における無著成恭の「山びこ学校」、群馬県島小学校長となり、「島小教育」の名で教育史に残る実践を展開した斎藤喜博の実践、新潟県の教員、寒川道夫指導による大関松三郎の詩集「山芋」の発表、多くの実践が花開いた。

 日教組は、不滅のスローガン「教え子を再び戦場に送るな」を制定し、発表した。

 しかしその後、教育への国家統制が厳しくなり、教員の政治活動制限、教育委員の公選制廃止、勤務評定の実施とつづいた。

 

 社会の情況と政治の情況は教育に反映する。学校教育と社会の情況は、子どもたちに反映する。

 今、学校に教員たちの活発な討議が存在するか。教員のなかに豊かな連帯感があるか。

 教員たちは、創造的な教育実践を行っているか。

 そして再び問う。

 石巻市大川小学校の悲劇はなぜ起こったのか。

 なぜ50分も校庭で動かずにいたのか。

 なぜ子どもたちは、「先生、逃げよう」と言わなかったのか。

 言っていたけれど、先生はそれに応えなかったのか。

 同僚同士で速く避難しようと、会話しなかったのか。

 会話していたけれど、上からの指示を持っていたのか。

 日ごろから、言われることに従う、受け身の関係だったのか。

 

 疑問は尽きない。これを調査することは、今の日本の学校現場をえぐりだすことになるだろう。