教育

問題発言という現象

大臣や政府関係者の発言が問題視される事態が続いている。その発言によって、大臣が辞任するというニュースも今朝の報道であった。 人間の発する言葉の意味するものが問題となるのだが、言葉だけが問題視されてしま うと、重要なことが抜け落ちていく。「口…

 「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録」<2>

「子どもの村中学校アカデミー」の「プロジェクト」は、人間が生きる上でもっとも基本的な営みから題材をとり、少なくとも一年間、広く深く学ぶ体験学習で、毎週11時間がこれに当てられる。「アカデミー」というクラスには担任がいない。活動計画は自分たち…

 「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録」

先日図書館で、「中学生が書いた 消えた村の記憶と記録 <日本の過疎と廃村の記録>」(黎明書房)というタイトルの本を見つけた。著者名を見て驚いた。「かつやま子どもの村中学校 子どもの村アカデミー著」とある。おお、なんと堀さんが監修している。 な…

 加美中学1985年卒業生同窓会 <4>

同窓会の翌朝、道頓堀の川端に造られた木の桟橋の遊歩道をひとり散策した。川の水は緑に濁り、これでは魚は棲めそうにない。以前、堀をきれいにしようというキャンペーンで、EM菌を水に投入したり、空気を水中に送る装置で浄化を行なう活動があったようだ…

 加美中学1985年卒業生同窓会 <3>

「先生、『おうとつ』の中谷です。」 背中越しに顔がのぞき、声をかけてきた男。 「おう、中谷君‥‥。」 声が詰まって出てこなかった。卒業してから一度も会っていない。15歳の中学生は今や48歳のりっぱな社会人、まさか、まさか、「おうとつ」編集長の中…

 加美中学1985年卒業生同窓会 <2>

明秀はぼくの担任する1年7組のワンパクだった。そのクラスにはワンパク男子が五人ほどいた。授業開始のチャイムがなると、次の授業はヨッサンだぞ、それ行けとばかり、五人にオテンバ一人も加わり、ヨッサンを迎えに、半分はからかうために教室から出てき…

 加美中学1985年卒業生同窓会 <1>

道頓堀ホテルの宴会場で大阪市立加美中学1985年卒業生徒たちの同窓会があった。ぼくは加美中学には1979年から1989年まで勤務した。剛史君から「ぜひ出席を」との要請電話が来たときは、膝の痛みもあって出席することは無理だなあと返答していたが、ぼくのク…

 同窓会

八月末に電話がかかってきた。 「タケシです。覚えておられんでしょう。別のクラスでしたから。10月初め、同窓会を計画しています。出席してくださいませんか。」 1984年度の卒業生だった。直接受け持ったことがなかったから、記憶のかけらもなかった。その…

 教育の原点

ぼくが愛読するブログに「困らないけど、いいですか」というのがある。筆者は新間早海さん。 今年の一月か二月、そこに、「子どもはまったく完成されていて、かつ未完のまま」という記事があった。 記事は担任教師と子どもたちの距離感がどんどん縮まってい…

 魯迅に「非攻」という小説がある

中国の戦国時代に、「墨子」(紀元前470年ごろ〜紀元前390年ごろ)という思想家がいた。今から2500年も昔の話。 魯国の墨子は、一視同仁や、非戦・反戦をとなえた。一視同仁は、人を差別せず、すべての人に平等に仁愛をもって接すること。非攻は、非戦・反戦…

 プリーモ・レーヴィ「これが人間か」

プリーモ・レーヴィの著作「これが人間か」には、「アウシュビッツは終わらない」のサブタイトルがついている。今も続いているし、これからも続くという予感である。 プリーモ・レーヴィは、イタリア系ユダヤ人で、1944年、アウシュビッツ強制収容所に入れら…

 学校という器なのか世界なのか

「学校砂漠」という言葉がある。 学校が地獄に思える子がいる。 公立中学校の職を辞してから教育研究をしている尾木直樹は、 「学校を離れて最も驚いたのは、いかに学校の内実が社会に知られていないかということでした。子どもと教師のリアルな息づかいが、…

 教育の目的

書物や新聞を読んでいて、ぽっとそこの文章が目にとまり、その一点に入りこむときがある。こちらの思考や感性に働きかけるものがその文章にあり、同時にこちらにもそれに呼応する受け皿があるからだ。 ある時、「そのとおりだ」と思ったのだろう。その文章を…

弱点、ダメなところを乗り越える

ずいぶん前になるが、NHKテレビに「課外授業」という番組があった。マジックをやっているマギー司郎が子どもたちに授業をした。 マギー司郎が話しかける。 「自分は子どもの頃から人前でものが言えないダメな人間だったんですよ。」 中学卒業してからマジ…

 日本の学校は?

無表情でぶっきらぼーで、どことなく暗い感じのする彼が、小声でぼそぼそ語り出した。それまであまりしゃべりたがらなかったのに、突然語りだしたのは、彼が語る気になったからで、語る気になれなかった状態から解かれたからで、その変わり目が来て表情が変…

 「無着成恭 ぼくの青春時代」<2>

人生を通して、ぼくは戦後の教育を体験してきた。たくさんの教師たちがぼくの人生を通り過ぎていった。戦後の自由な教育改革の中から生まれてきた創造的献身的な教師たちの数々の実践と情熱に共鳴し、一方で、戦前の体質を温存して生きる権力的教師たちや、…

 「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>

日本図書センターが「人間の記録」というシリーズを出版している。一冊一人、その人の著述・自伝を集めたもので、田中正造から始まり、今で174巻目になるらしい。これはまたすごい。実に多彩な人物像が本人の記録で集大成されている。他者の評論はなく、丸ご…

 生徒の命を奪った教育

子どもの頃、あるいは大人になってからでも、「小さな悪」、「小さなズル」をしたことのない人はいるだろうか。あの時のあの行為、大概の人は思い当たることがあるだろう。そして、そのことの「小さな罪」が、自分の心の戒めになっていることに気づくだろう…

 卒業

もうすぐ卒業していく子どもたちへの担任教師の熱い想いがEメールで届いた。 <卒業ということが、こんなに自分の心を揺り動かすとは思ってもみなかった。 今のわたしは、自分でも驚くような「惜別の情」に悩まされている。自分は、もっとあっさりしたタイプ…

 小・中学校の校歌と故郷の大地 <2>

むかし? 新任教師として赴任した大阪市の淀川中学校は新設校だった。校歌はまだなかった。校長は校歌をつくろうと考えた。どこでどういう風に決まっていったのか分からない。ある日、「日本の詩歌全集」に収められている名の知れた詩人がやってきて、校長室…

 大阪の教育に観る危機

待ち合わせ場所は紀伊国屋書店のインターネット本のコーナーだ。行くと男がいる。きれいな白髪頭だ。 「ゴンパチ君!」 小声で呼ぶと、振り向いた。当たり! 彼だ。地下街の喫茶店に移った。 「ぼくもこんな調子」 帽子をとって、毛の薄くなった坊主頭を見せ…

 学校の自然

8月2日の「ビオトープ研究会」で校庭観察 何回か草刈りをしてあるが草ぼうぼうになっている田んぼのあぜと、まったく草刈りをしないで放置してきたために草ぼうぼうとなっているあぜとでは、一見して分かる。放置してきたあぜは、草は背高く、茎太く、密生…

 ヘビとゴキブリを飼っている

写真:おもしろいね、この家 チンパンジーの研究家、松沢哲郎の文章が今日の教材だった。松沢は日本の動物心理学者・霊長類学者であり京都大学の教授である。 「声を出して教材を読んでください」 マンツーマンの指導、シュンはぼくの前に座っている。シュン…

 反骨の教え子シンジが白馬に来た

朝のウォーキングから帰ってきて、朝食をとっていたら電話がかかってきた。口のなかにふかしジャガイモが入ったところだったから、モゴモゴ食べながら受話器を取る。名乗った相手は、なんとシンジだった。 「いま、白馬に来たとこやねん。」 「えーっ、ハク…

 主権者教育という提案を読んだ

今朝の新聞のコラムで編集委員の曽我豪氏がこんなことを書いている(要旨)。 <選挙権年齢を「20歳以上」から「18歳以上」にする公職選挙法改正がこの国会で成立しそうで、早ければ来年夏の参院選から実施される。次の学習指導要領の改訂で、「公共」といっ…

 小高さんの大空小学校訪問記

「安曇野地球宿」の和室二間に大きく輪になり、呼びかけ人の小高さんが進行を行って「教育」をテーマにフリー討議を何回かやってきた。集まってきた2、30人は普通の市民、子育て真っ最中の父ちゃん、かあちゃんも多い。小高さんが、このミーティングを続け…

 春を探しに教室を出よう

この三日間、日差しが暖かく、日中の気温が上がって南風吹き、おまけに雨が降った。日陰になっていたガレージのトタン屋根に分厚く積もっていたさしもの雪もみるみる融けて、建物や樹木、田んぼの畦の、北陰に残った雪だけが、未だ風景のまだら雪になってい…

 ノーベル平和賞を受賞したマララさんのスピーチを授業に

今朝、ノーベル平和賞を受賞したマララさんの、ノルウェー・オスロでのスピーチの要旨が、新聞に掲載されていた。(朝日) スピーチの英語文と、日本語訳が、並んで、一面を埋め尽くしている。マララさんのまっすぐな心情が、スピーチにあふれている。マララ…

 桃太郎の話

12年前、中国武漢大学で大学院生の授業をしていたとき、女子学生の王さんがこんなことを言った。 「日本の桃太郎の話は、鬼が島へ侵略した話です」 そういう見方は日本で、1970年代の部落解放教育運動のなかでぼくは聞いたことがあった。そのときは、「お…

 敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <10>

斎藤喜博の学校づくりで展開された授業の中の子どもたち、その生き生きとした美しい姿は写真集にもなった。 斎藤喜博は1911年生まれ、終戦のときは34歳だった。小中学校の教師として戦後を迎えた斎藤は民主主義教育をつくるために、群馬県教職員組合の文化部…