大阪の教育に観る危機


 待ち合わせ場所は紀伊国屋書店のインターネット本のコーナーだ。行くと男がいる。きれいな白髪頭だ。
「ゴンパチ君!」
 小声で呼ぶと、振り向いた。当たり! 彼だ。地下街の喫茶店に移った。
「ぼくもこんな調子」
 帽子をとって、毛の薄くなった坊主頭を見せる。
 12年ぶりだった。30代のとき同じ学校で、被差別から立ち上げていく教育と運動に共に没頭した。
「今、大阪はえらいことになってるよ」
 彼は大阪の現状をとつとつと語った。教師たちに活気がない。上からの締め付け、統制が強くなり、組合に入る人は激減、組合員の教育研究活動も制限され消滅しつつある。管理職試験を受ける人は減っており、教頭の成り手が足りない。だから、30代の教員が教頭になっている。教育経験も教育理念や教育技術もきわめて不十分な人物でも管理職に採用せざるを得ない。校長を民間から登用することも行われているが、問題が次々起こって、校長職を退かざるを得ない人も出ている。企業の論理を教育の場に持ち込むこと自体どだい無理なことだ。教員の成り手も減った。大阪の教員採用試験の倍率は驚くほど低く、教員の質も低くなっている。教員給与も最低だ。心ある教師も、雑務、事務量に振り回され、子どもと直接ふれあう場面がない。全国学力テストも最低レベルにあり、学力面でも大きな課題を抱えている。そんなこんなで新採教員の離職率も高い。
 彼はホッとため息をついた。教師たちは疲弊している。夢がない。情熱がわかない。
「明日は知事と市長の選挙やなあ」
「だめやね」
 もう結果は見えているという。そしてその通りだった。
 彼といっしょに教育実践を行なっていた1970年代、ほうはいとして教育実践運動が全国的に起こっていた。被差別の現実から立ち上がった、部落解放教育、在日韓国・朝鮮人の教育、障がい児教育、夜間中学校をつくる運動、公害から子どもを守る運動、そして教科指導の各分野に生活指導、学校行事、学校の民主化、あらゆる分野で、自主的な民間の教育運動が開花していた。それは敗戦の歴史現実に立脚して、民主主義教育を創り上げていこうとしてきた大きなうねりだった。
 全国的にも先導的だった大阪、あの時代のエネルギーはどうなったのだろう。
 11月24日の朝日新聞社説を読んで驚いた。

<「ゼロトレランス」という言葉がある。「寛容度ゼロ」と訳される。小さな問題をあいまいにせず、段階に応じて罰則を定めた行動規範を子どもに示し、破ったらペナルティーを科す。そんな生徒指導法のことだ。
 1990年代、学校で銃乱射事件が相次いだことを受け、全米に広まった。
 これにヒントを得た「学校安心ルール」という指導法を、来年度から大阪市教委が導入する。問題行動を5段階に分け、レベルごとに対応を定める。
 たとえばこんな具合だ。
 【レベル1】授業に遅れる ▽ずる休み ▽先生をからかう
  →その場で注意。聞かなければ別室指導。従わなければ奉仕活動か学習課題を課す。
 【レベル2】先生の悪口を言う ▽友達を仲間はずれにする
  →複数教職員による指導と家庭への連絡。改善しなければ、数日間の奉仕活動……
 レベル4、5の暴力や傷害には、警察への通報や出席停止措置などが明記されている。
 対象は市立の全小中学校424校で、徹底させるため、市教委は学校がルール通りに動かなければ市教委に通報するよう保護者へ呼びかけるという。
 問題行動の背景は子によって違う。学校の事情もそれぞれだ。「ルールだから」とマニュアル的に対応するのは無理があると言わざるを得ない。「ぶれない指導で安心、安全な学習環境を確保する」のが市教委のねらいだ。だが、そもそも問題行動にどう対処するかは学校自身が決めることだ。市教委は「学校の裁量もある程度認める」と説明する。ならばなぜ、保護者に監視させるような仕組みまで作るのか。
 罰則規定をしゃくし定規に当てはめるようでは、子どもとの対話も失われかねない。確かに先生にかつての権威がなくなり、学校の規律をどう守るかは悩ましい問題だ。暴力を止めようとしたら「体罰だ」と言われたり、ささいなことでキレられたり。子どもが変わったと感じる先生も多い。
 ルールを守らせるのに手がかりが欲しい。そんな声もあろう。だが、統一的な基準を作るにしても、あくまで教員間の指導の目安にとどめるべきではないか。困難であっても、子どもに直接向き合う先生がその子に合った対応を考える。それが教育だからだ。
 市教委は来年度の1学期から試行し、2学期から本格実施するという。現場の教員からは疑問の声や、撤回を求める動きもある。強く再考を求めたい。>

 以上がその社説。かつて、管理主義教育が蔓延していたころ、細かい規則を作って、それを守らせようとする教師たちは、規則違反に目を光らせ、生活指導部の教員は取締隊の様相を呈していた。「髪の毛の長さ」「スカートの丈」「ベルトの色」など規則は多岐にわたった。
 そしてこの動き。
 教育の本道が崩れていく様を見る思いだ。
 ぼくは彼に言う。
「教育実践を積んできて、教育観をもつ教師たちが、今立ち上がるべきではないのか。退職した教員たちは今何をしているのか」