敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <10>

 斎藤喜博の学校づくりで展開された授業の中の子どもたち、その生き生きとした美しい姿は写真集にもなった。
 斎藤喜博は1911年生まれ、終戦のときは34歳だった。小中学校の教師として戦後を迎えた斎藤は民主主義教育をつくるために、群馬県職員組合の文化部長になり、平和教育を推し進めた。そして教職員組合からも推されて、1952年、41歳で群馬県島村の島小学校の校長となった。在任の11年間、そこでの学校づくりは「島小教育」の名で教育史に輝く。
 島小学校に赴任してきたときは、村人たちからも、現職の教師たちからも、すぐにやめていくだろうと思われていた。児童数は235名、分校は129名、教師は14名だった。教師たちにはやる気が見えなかった。
 先生たちは、遠慮しているのか、警戒しているのか、おとなしいのか、みんな静かで休み時間や放課後はそれぞれの机にじっと腰かけている。始業の鐘が鳴ってもすぐに教室へ行かないで腰かけたまま話をしている。斎藤が授業を見に教室へ行くと、子どもたちはザワザワとなり、教師は固くなって話をやめてしまう。子どもたちは、号令をかけられると反射的に体を動かすが、心は他のほうを向いている。先生も子どもも形式的で、生きて動いているように見えない。校庭で先生と子どもが遊ぶ姿は皆無であった。斎藤は、「背筋が冷たくなるようで、いやな息苦しい思いがした」と書いている。(「学校づくりの記」国土社)
 「この学校の先生は、村出身の人が多く、村の有力者と縁故関係になっている、それを背景にあぐらをかいているのだから気をつけたほうがいい」と忠告してくれる村人もいた。

 学校の設備は極端に貧弱であった。これまで学校予算は備品をそろえることもできない状態だったのだ。
 斎藤の学校づくりは環境整備から出発した。まず村から予算を獲得することだった。斎藤は村長と掛け合った。前年度53万円だった学校予算は30万円ぐらいしか使うことができていなかった。その年度の予算は61万円、それを全額使うことができるようにした。そして前年度の使うことができなかった残りの予算も使ってもよいようにした。
 斎藤は、12学級全部に水槽、昆虫飼育箱、三角定規、コンパス、小黒板を購入して配った。そのとき、子どもたちは、手をたたいて喜んだという。次に廊下の隅に図書室をつくり、テーブル、椅子を置いた。
 教師の自由を保障しやる気を引き出すために職員会で話し合って、職員室に雑誌を置くことにした。「世界」「中央公論」「小説新潮」「婦人公論」、分校に「改造」「婦人公論」「文芸春秋」を定期購読でとることにしたのだった。さらに職員室の先生たちの古い椅子を、座り心地のよい椅子に換えた。校長室と来客用の椅子は古いままにした。
 村の支配層は広い田地もちの富裕層で、彼らはきわめて利己的で、子どもの教育について学校をよくすることはしなかった。斎藤は村には、多くの農地を持って養蚕を営むものから農地の少ないもの、持たざるものへと、四つの階層があると分析した。村出身の教師たちはその第3のランクの人たちで、村の人たちから軽蔑され、卑屈になっていた。
 「私は、そういうことをみんなして考え、みんなの力で取り去って、この村の文化を、またこの村の学校教育を公的なものにし、みんなの力で押し上げていくような体制を、どうしてもつくらねばならないと決心していた。」(前述書)

 斎藤は、授業の中に入って、担任と一緒に考え授業をつくった。子どもの可能性を引き出し、持っている力を発揮する、そういう授業を創造していった。
 斎藤は、事務を簡素化し能率化した。職場の民主化を進めた。

 斎藤は、「職場づくりの意味」について、こんなことを書いている。
 「私たちは自分たちの職場を楽しく明るいものにしてきた。私たちは職場のことを『管弦楽団』といったり、『機動部隊』といったりしていた。一人ひとりがみなそれぞれの特徴を持ち、全力をあげて自分を発揮することによって、全体でりっぱなハーモニーを出しているということであり困難にぶつかったり仕事を仕上げようとするとき全員がその方向に一斉に進んで力を出すということを意味している。
 私たちが、教師として自分たちの職場を明るく住みよいものにするということは、もちろん自分たちが一人の人間として毎日毎日を幸せに楽しく生きていきたいという願いに出発している。それは、
 憲法十二条『この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保障しなければならない』
という条文を踏まえたものであり、自分たちの絶えざる努力によって、自分たちの職場のなかに憲法の精神を実現し、自分たちを幸せにし、自分たちを解放して創造的に生き甲斐のある仕事のできる人間にすることである。これは、職場の中に、また自分たちの心の中にある、さまざまな前近代的なものを自分たちの力で克服することであり、職場内外から自分たちに覆いかぶさっている、さまざまな圧力から脱却することである。それらのものから抜け出し、解放されたとき、私たちの精神は生き生きとして表現活動も盛んになり、教育実践も生きた創造的なものになってくる。そのことは教師と同じように抑圧され、表現を抑えられている父母や子どもたちの生き方に影響を与える。
 私たちはこのように考えて職場づくりをしてきた。その結果先生たちは生き生きとしてき、自信を持ち、実践が個性的創造的になるとともに、詩、短歌、作曲、脚本、童話など、自分の創作方有働もするようになってきた。解放されることによって芽を出さずにいたものがそれぞれの形で表現されてきた。
 私の学校の先生は、みんな輝くように美しい。」

 教師たちは全員で合唱するようになった。職員会のときは合唱がつきものになった。「峠の我が家」「バイカル湖のほとり」「花」「草原情歌」などたくさんの歌を歌った。
 教師たちの活動する姿や表情は、美しいと斎藤喜博は感嘆する。
 斎藤喜博はリーダーシップを発揮し、先生たちは自分の個性、持てる力を発揮した。
「校長は理論家であり、思想家であり、みんなの実践のなかにある理論や思想や法則をさがしだし、それを全体のものにし、そういう事実の中から学校全体の理論とか思想とかを作り出し、次の実践をつくりだす基をつくる力をもたなくてはならない」
斎藤喜博は校長の役割をそう書いている。(前掲書)

 ぼくは「写真集 いのち、この美しきもの」(筑摩書房)という大版の写真集をもっている。斎藤喜博が11年間島小で活動した後に勤務した、境小学校の子どもたちの写真集である。撮影は、川島弘である。

 子どもたちが行進している。
 子どもたちがジャンプしている。
 子どもたちが歌っている。
 子どもたちが話を聞いている。
 子どもたちが劇をしている。
 子どもたちが体操をしている。
 子どもたちがダンスをしている。
 子どもたちがマットの上で転回している。
 子どもたちが泳いでいる。
 美しい。
 なんと美しい姿であることか。