反骨の教え子シンジが白馬に来た

 朝のウォーキングから帰ってきて、朝食をとっていたら電話がかかってきた。口のなかにふかしジャガイモが入ったところだったから、モゴモゴ食べながら受話器を取る。名乗った相手は、なんとシンジだった。
 「いま、白馬に来たとこやねん。」
 「えーっ、ハクバ―?」
 「センセ、食事中?」
 「よう分かったな。そうや」
 「スキーに来たんやけど、センセとこ行こかと思てんねん。ここから近い?」
 「スキーに来たー? 白馬のどこに来たの?」
 大阪から中央道を走って安曇野インターを出てきたのかと思う。
 「よう分からへんねん。イトなんとか‥‥」
 糸魚川か、すると北陸道から糸魚川に出て、白馬に来たのか。グループで来たという。どこに泊るん? スキー場の名前は? 質問すると、シンジは近くの誰かに訊ねている。ここどこや、ホテルの名前は?とか聞いている。
 「コルチナや言うてるわ、小谷村やと」
 「そうかあ、だいたい分かった。」
 一泊二日の日程で、夜走ってきてホテルで一泊し、また夜走って帰る。スキーの合間に時間をつくって車を借り、我が家に来ると言うけれど、時間はどれくらいかかるかなあ。彼の頭には北信の地図は全く入っていない。
 「また電話するわ」
ということで、その日シンジは、雪の白馬岳を眺めながら大快晴のゲレンデで滑った。
 あのシンジがなあ、スキーとはなあ。
 10年前、安曇野に移住するまえに、奈良と大阪の境にある金剛山麓の家に、彼は同級生数人で遊びに来たことがあった。日本酒を一瓶持ってきて飲んでいた。そのころ彼は大阪で焼き肉店を自力でオープンしていた。次に会ったのは、2年前、シンジの家だった。二度目の奥さんを迎え、中古の家を購入し自分でリフォームしていた。大工仕事はお手のものだ。
 「センセが泊れる部屋つくったで」
と言っていた。

 そしてこの日、突如白馬からの電話だ。結局その日はスキーに熱中して、疲れ果ててホテルに帰り、一杯飲んで、ころっと寝てしまったのだろう。翌朝、7時過ぎ電話が鳴った。それ来た。
 「ええ天気やあ。最高やなあ。雪質もええでえ。陽に焼けて真っ黒やあ。車借りてセンセとこ行くわあ」
 「今晩帰るんやろ。こんなええ天気やから、スキーやったほうがええで。もったいないで。うちまで来ると片道1時間以上かかるからなあ。せっかく来たんやから、スキーしたほうがいいで」
 「そうやなあ、じゃあそうするわあ、また今度大阪に来たら寄ってやあ、それまで死んだらあかんでえ」
 「また大阪行ったとき行くからなあ。脚折ったらあかんでえ。それにしてもようスキーに来たなあ」
 「スキーはなあ、若い時、やったことあんねんでえ。センセ、オレもう50歳やでー」
 「えーっ、もう50かあ」
 ワッハッハッハ、もうそんな年になったかあ、二人は電話で大笑いした。
 25年前、ぼくは「ツチノコ探検隊」という本を出し、そこに「シンジ」というタイトルのエッセイを入れていた。書き出しはこうだ。

 <シンジが二十歳になった頃のことだった。日曜日の午後に、彼は二人の仲間とともに私の家にやってきた。精悍な顔つきだが、穏やかな表情で、彼らは座敷にあぐらをかいた。
 中学校を卒業してから、看板屋、活魚商、大工見習い、と仕事を変わってきたいきさつをシンジは語った。親方の下で、シンジはそれなりに仕事に励んだのだが、血気盛んな彼のこと、何かの拍子にトラブルを起こして親方の不興を買ってしまう。そうなると反骨精神が、せっかく上げてきた腕前もろともに彼を仕事から引き離してしまうのだった。
 シンジは中学校時代、小柄な全身が「つっぱり」の塊だった。私の教職生活の中で、これほどの「つっぱり」に出会ったことがない。社会人になった彼はときたま私の家にやって来る。けんかっぱやかったシンジは、かなりはでなけんかをしてきたようで、もうそんなけんかはしたくないし、懲りている、堅実に生きたいという。>

 小学時代、彼は繰り返すいたずらや反抗から担任教師に嫌われてきた。教師の偏見には彼はきわめて敏感だった。中学一年になっても担任や生活指導の教師に反逆した。音楽の教師に反抗して、教室にバリケードをきづいた。二年生と三年生のとき、ぼくは彼をぼくのクラスに受け入れた。
 彼と彼の仲間は、「10人衆」を名乗って、周辺の学校の番長に勝負を挑み制覇した。道路を50ccのバイクで暴走することもあった。

 彼が24歳のとき、我が家は引越しすることになり、彼に荷物運びの手伝いを頼んだ。彼は大阪市内から奈良まで、仲間を4人連れて来てくれた。高台の我が家から下の道路の大型トラックまで家財道具を運ぶのは骨の折れる仕事で、彼らはほこりまみれになってやってくれた。
 それから何年かして彼から手紙が来た。結婚して子どもも生まれていた。子どもが可愛くてしかたがない、こんなに可愛いものかと、親父の素直な気持ちを書いていて、素朴な心情に感動した。ところが数年して、離婚したという手紙をもらった。子どもは母親のほうに引き取られた。彼にとっていちばんつらく、悩んだ時代だった。
 大阪へ出た時、ぼくは一人暮らしをしているシンジの借家に一泊したことがあった。離婚の後の痛手から立ち直って、型枠大工をしていた。「オレが悪かったんや」、離婚についてシンジは謙虚になっていた。そのとき、何を思ったのか彼はちらりと、服をはだげて胸を見せた。百円玉ほどの傷跡があった。命にもかかわることをやってきた、血の気の多い無謀な生き方はもう終わった、それを示したかったのだ。そのころ彼は30歳になっていた。
 そしてまた数年がたち、もたらされた情報は、生まれ育った大阪市内のその地に、シンジが飲み屋を開いたということだった。自分でいろいろ料理して客に出す。行ってみると、いったいどこでこんな技術を身につけたのか、飲み屋のおやじは板についていた。ぼくが10年間勤めた加美中学校の卒業生が、店に集まってきて、期せずしてそこは同窓会になった。
 シンジより7年下の年度の卒業生が、一昨年同窓会を開いてくれた。それに参加しての帰りにシンジの家に立ち寄った。彼は再婚し、店も新たに作る計画をたてていた。やさしいいい奥さんだった。

 白馬に来たシンジ、会えなかった。が、久しぶりに話ができた。
「店は順調かあ」
「順調やでえ」
「奥さん、元気かあ」
「元気やでえ」
 
ツチノコ探検隊」のエッセイの最後はシンジが中学三年生の時のことだ。
<夏休み、つっぱりグループはアルバイトに精を出した。シンジは初め鉄工所、次に中華料理店で働いて、工場主や店長から残業までしてよく働くとほめられたようだった。
 秋、一年半の入院生活を終えて「明るい農村」(同級生の小川君のニックネーム)が学校に帰ってきた。二年生の時のクラス生徒が歓迎会を開いた。シンジが退院を祝うあいさつをやって、みんなの温かい拍手を受け、この日だけシンジのつっぱりがはずれた。
 「おれ、ゴキブリと言われて、そんな授業に出られるか」
と言っていた体育の授業に、たまに出ることもあって、彼もただつっぱるだけではないなと思える変化が見られるようになったころ、シンジたちは卒業を迎えた。>

 シンジは白馬から大阪に帰っていった。家に着いたら、奥さんからぼくの贈ったフキノトウ味噌をうけとったことだろう。フキノトウ味噌は、一週間前に別の子にいくつか送り、その一瓶をシンジのところへとどけてほしいとことづけてある。ぼくはまさか彼が白馬に来るとは思いもしなかった。彼が電話してきたとき付け加えておいた。
フキノトウ味噌、送ったからな。もう家に届いていると思うよ。熱いごはんに乗せて食べるおいしいで。ちょっと苦みがあるのがいいんや。春の命やで」
 反骨の在日3世。 今度いつ大阪へ行けるかな。