「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>

 日本図書センターが「人間の記録」というシリーズを出版している。一冊一人、その人の著述・自伝を集めたもので、田中正造から始まり、今で174巻目になるらしい。これはまたすごい。実に多彩な人物像が本人の記録で集大成されている。他者の評論はなく、丸ごとその人の文集になっている。今、ぼくはこのなかの「無着成恭 ぼくの青春時代」を読んでいる。僧侶として晩年を送る無着さんは、この現代をどう見ているか聞きたいものだが、あの戦時下を生き、戦後の日本の教育に大きな影響を与えた彼の思想と実践、生きざまに、今はとりわけ学ぶことがあるように思う。
 70年近くの年月を経て、今の学校教育はどれほどの深化をとげたのだろう。教育とは何だろう。
 1948年(昭和23)、山形県の山元村の中学校に赴任した青年教師、無着はそこで、あの「山びこ学校」の教育実践を行なう。その実践は学校という枠を突破して、村づくり地域づくり、日本の教育の在り方にも発展していった。
 昭和19年、彼は旧制山形中学校の、17歳の生徒だった。そのときの日記がこの本に収められている。中学生たちは、勤労動員で学校から飛行機製造工場へ働きに行っていた。

 昭和19年8月26日
 「今朝もまた予科練の入隊者があり、壮行式。軍人勅諭でなく、海ゆかばの歌と校歌で送ることになった。ゲートルを巻きながら、いやになってきた。何にいやになってきたかというと、その正体が自分でもつかめない。こんな風に働いているのがいやでもあるし、生きているのがいやなようでもあるし、とにかく、ああいやだいやだ、という感じである。それでも工場に行った。‥‥」

 昭和20年3月31日 夜に卒業式。生徒たちは校歌を歌って別れを惜しんだ。
 「夜、警戒警報のカバーをつけた薄暗い電灯の下で卒業式だった。『仰げば尊し』の歌は敵性をふくんでいるので歌わなかった。『君が代』も歌わなかった。歌ったのは校歌だけだった。
    ……
    ああわが紅顔未来の光り
    望みにあふれて日夜に進み
    業なるあした二つの肩に
    国家の運命雄々しくおわん
 ぐっとこみあげてきて歌い続けることができなかった。もう卒業なのだ。俺はダメだ。俺はダメな奴だ。そう思うと、涙がぽろぽろとこぼれてきた。卒業式が終わり暗い外に出たとき、俺が『お前と俺とは同期の桜‥‥』と低い声で歌った。それがみんなに伝わり、ぞろぞろ道を歩きながら大合唱になっていった。
  咲いた花なら散るのは覚悟
  見事散りましょ国のため」

 昭和20年8月15日 無着は山形師範学校に進学するが、そこでも戦争遂行の動員作業で、山に登って松根油を掘っていた。

 「正午に重大放送があるというので、午前中馬力をかけて松の根を掘り、山を下りた。ラジオは社務所にしかなかったので、一里の山道を飛ぶように走っていった。
 みんな静かに聞いたけど、なんのことかわからなかった。あとの説明を聞いているうちに戦争は負けて、終わったんだということがわかった。
 夜、馬鈴薯をゆでてもらって塩をつけて食べた。みんなものも言わずぼそぼそ食べた。海軍の下士官が、『貴様ら、日本が負けてうれしいのか。腹を切れ、腹を切れ』と言って泣き喚いた。少しよっぱらっていた。」

 無着成恭は山形師範学校二年、弁論大会の演説原稿が載っている。その中に次の文言があった。
 「‥‥ぼくたちの問題は二つになってくるわけです。一つは、日本は正しくなかったという前提に立って、何が正しくなかったのかということを明らかにするという問題です。もうひとつは、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしている人がいるということです。その人はいったい誰なのか。なぜ、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしているのか、という問題です。‥‥
 つまり、日本が戦争に負けたことによって、はじめて、日本人がほんとの意味で、『敵は幾万ありとても』と歌って戦わなければならない時代に入るのだというのがぼくの意見です。戦争中よりも、敗戦のときよりも、もっともっとつらい、しんぼう強さを要求する戦争が、ぼくたち日本の青年の上におおいかぶさってくるだろう、というのがぼくの意見なんです。」

 昭和23年、師範学校を出た無着は山元村の中学校に赴任した。
 教師としての無着は、生徒とともに生きながら、「なぜ」「どうして」の問いを発し続ける。現実を見ろ、現実はどうなっている、どうしてそうなっているのか、この問いかけが生徒の学びを深化させていった。

 日本が再軍備を始めたころ、無着先生は、村のダンゴ屋に入って、ダンゴ屋のおっかあと語り合う。おっかあの息子は、自衛隊の前身、警察予備隊に入った。仕方なしに入隊を認めた。けれども入ったまま帰ってこない。帰ってこずにアメリカのために死ぬようなことにならないか。おっかあが言う。
 「戦争のためなら、ただ一人だって殺したくない。かたきの子だって殺したくない。あとに残された人ば見てけろず」
 兵隊に行って、若い者たちが死んでいった。戦後の今また、ひとりであっても殺されるような戦争に行かせたくないし、敵をも殺したくない。おっかあの真情だ。
 無着は、村人たちの気持ちを証明する「幹部だけの軍隊」という小論にこんなことを書いている。

 「村には、戦争はコリゴリだという空気がみなぎっている。難儀をして育てた息子をだれのためだかわからないタマのマトにしてたまるもんか、という空気が充ちている。戦争に賛成する奴がまっさきに戦争に行って死ねばよい。戦争に賛成する奴にかぎって、戦争に行かない奴らだ。そんな空気がみなぎっている。それは役場に行って調べてみればまったく無理なことではないと分かるのである。たとえば山元村で大正10年に生まれた男の数は31人で6人の戦死。11年が37人生まれて10人の戦死。12年が23人生まれの9人戦死。割合で言えば、大正10年が2割、11年3割、12年4割、13年1割、14年1割5分、15年1割4分、の戦死となっている。そして、お嫁さんの方は、13年、14年、15年の生まれの娘さんの中に、いわゆる売れ残りというのがいちばん多く、3名、2名、4名、となっている。しかも各年を通じて、2名から4名の亭主戦死のための、出戻りがあるのである。そして今、お嫁さんになるのは、昭和4年から7年にかけて生まれた娘さんたちである。だから、戦争が始まれば、また何割かの娘さんがお嫁にも行けず、家でもじゃまにされ、首でもくくらねばならないということが始まるだろう。」