加美中学1985年卒業生同窓会 <3>


 「先生、『おうとつ』の中谷です。」
 背中越しに顔がのぞき、声をかけてきた男。
 「おう、中谷君‥‥。」
 声が詰まって出てこなかった。卒業してから一度も会っていない。15歳の中学生は今や48歳のりっぱな社会人、まさか、まさか、「おうとつ」編集長の中谷君に会えるなんて予想もしなかった。
 「『おうとつ』の中谷です。」と開口一番に言うということは、あの当時、あのクラスでは、そしてぼくにとっては特に、強烈な出来事だったことを、33年の年月を経ても中谷君が認識していたということだ。もう我が人生で会えるとは思いもしなかった『おうとつ』の中谷。卒業してから音信の絶えたたくさんの卒業生の一人。

 二年生でぼくの受け持ったクラスに中谷君がいた。クラスでぼくの発行していた学級通信のタイトルは「ていてつ」だった。「ていてつ」は小熊秀雄の詩「蹄鉄」に由来する。
 「わが馬よ 私は蹄鉄屋」と小熊秀雄が詠った。


   私はお前の爪に
   真っ赤にやけた鉄の靴をはかせよう
   そしてわたしは働き歌をうたひながら
   ――辛抱しておくれ
     すぐその鉄は冷えて
     お前の足のものになるだろう
     お前の爪の鎧(よろい)になるだろう 
     お前はもうどんな茨(いばら)の上でも
     石ころ道でも
     どんどん駆けまわれるだろう
  
 ぼくはそういう蹄鉄を生徒たちに用意できるか分からないが、できる限りのことはやりたい。小熊秀雄はつづける。


     私の友よ、
     青年よ、
     私の紅い炎を
     君の四つ足は受け取れ、
     そして君は、けはしい岩山を
     その強い足をもって砕いてのぼれ、
     トッテンカンの蹄鉄うち、
     うたれるもの、うつもの、
     お前と私とは兄弟だ、
     共に同じ現実の苦しみにある。

  
 学級通信は、生徒の生活ノートと密接につながっている。生活ノートは毎週一度生徒は提出し、ぼくはそれを読んで返事を書いた。生活ノートには子どもたちの心のなかが現れてくる。仲良しグループからはじき出されたつらさを書く子もいた。ぼくは、クラスで起こっていることを生徒たちに知らせるために学級通信を使った。生徒の対立や仲間はずれなどの確執をつかむと学級通信に掲載した。悩んでいる子の気持ちも通信に載せる。いじめや対立、差別が起きると、ぼく自身も自分の考えを書いて学級通信に載せ、みんなの意見を聴くことにしていた。
 学級活動の時間に学級通信を配ると、クラスはしーんと静まりかえり生徒たちは真剣に通信を読んだ。
 「記事を読んでどう思ったかをまた生活ノートに書いてきてください。」
 生徒にそう伝え、そしてまた提出された生活ノートを読んで、そこに書かれていた意見にぼくの意見を書き入れ、これは参考になると思えた生活ノートの意見を次の学級通信に載せる。こうして、紙上討論を組んだ。男子の問題には女子が冷静な判断を示し、女子の問題には男子が書いた率直な見方が影響力をもたらす。男子からの意見は女子も冷静に受け入れることができた。日本の学校では、生徒たちが口頭で討論する力が養われていない。紙上討論はそこへのアプローチでもあった。
 学級通信には、社会記事や人物記事、評論、声を紹介することもある。討論の場になった学級通信は文集なみのページ数になり、生徒たちはむさぼり読んだ。一年間で発行する通信数は五十号を超える年もあった。
 二学期に入って、一週間ほどたったころだった。学級活動の時間に教室へ行くと、教室はシーンとして、みんな熱心に何かを読んでいる。おかしい、今日は通信を発行していないのに、何かを読んでいる。すると中谷君がいたずらっぽく、にやりと笑った。何だ? 何かあるな。
 読んでいるものの表紙を見ると「おうとつ」となっている。何? 教室に笑いが湧き起こった。
「ぼくらがつくった学級通信」、と中谷君は笑いながら言った。中谷君が中心になって何人かで作った「おうとつ」、すなわち「凹凸」。「ていてつ」に対抗する生徒の学級通信。十ページに及ぶ「おうとつ」創刊号には、丹念なぼくの似顔絵も載っている。中谷君は絵やイラストが得意で、編集は見事なものだった。
 対抗馬が現れた。これは負けてはおれん。「ていてつ」と「おうとつ」の競い合いが始まった。するとみんなの愛読は、「おうとつ」だ。「おうとつ」の人気記事は、ユーモアあふれるインタビュー記事と似顔絵シリーズ、そしていたずらっけのあふれる編集だ。
 教師と生徒の、二つの学級通信が競いだしてから、クラスの雰囲気が変わってきた。これは文化の香りかなあ、文化が子どもを変える。学級の子どもたちが主体になって動き出せば、そこに文化が生まれてくる。淀川中学校二期生のとき、ぼくのクラスに、学級新聞社が三つ生まれて、発行を競い合った。あのときも、放課後の時間は学級文化が花開いていた。
 クラスに小社会を作っていくことを目指し、生徒たちの文化を生みだす実践は、歴史的に観れば生活つづり方教育の流れにある。
 「おうとつ」が生まれ、学級が秋の文化祭に向けて動きだしたとき、
 「二年生のクラスで、一時的な転入生を受け入れてくれますか。」
 教頭が教師たちに言った。
「事情があって、この地域に住んでいる親戚を頼って来た母子です。福岡から逃げてきたということです。子どもをこの学校にしばらく受け入れてほしい。知らない人がこの子を捜しに来ても、引き渡さないでほしいということです。」
 一時避難か。その子を私のクラスで受け入れることにした。翌日、小さなゴマメのような男の子が教室に入ってきた。
 ぼくは教室で紹介した。
 「風の又三郎君です。九州から転校してきました。」
 「又三郎」が彼のニックネームになった。クラスでは、班を作って班で学習も掃除などの生活も協力しながらやっている。又三郎は美和の班に入った。美和の班には、クラスでいちばん小さなクニヒロがいた。又三郎はその子より小さい。又三郎は素朴な愛らしい子で、クニヒロの格好の仲よしになった。
 文化祭に向けて、クラスの子らは貼り絵の壁画を制作していた。又三郎も貼り絵の制作に加わった。又三郎はたちまちクラスの人気者になった。
 半月ほどして、ぼくの国語の授業の最中だった。
 「先生、あの子また転出です。」
 教頭が廊下に立っていた。
 「今すぐに家に帰してほしい。母親からの連絡で、またどこかへ移るそうです。」
 またどこかへ逃げなければいけないのか。ぼくは教室に入って言った。
 「又三郎は転校します。今すぐです。」
 「えーっ、そんなあ。そんな無茶なあ。」
 美和が叫ぶ。
 「又三郎、どこへ行くの?」
 又三郎は黙って席を立ち、教頭に連れられて教室から出て行った。
 「私、見送りにいく。」
 美和は言うなり、教室を飛び出した。クラスのみんながどやどやと続いた。生徒たちの心が噴出すると、さえぎることは出来ない。
 校門に行くと、又三郎がお母さんらしい女の人と出ていくところだった。クラスのみんなは鉄の門扉を手でつかんで叫んだ。
「又三郎、元気でやれよ。」
「バイバイ、又三郎」
 子どもたちは別れを惜しんだ。
 文化祭を前にして、みんなで制作してきた貼り絵は完成した。各班の貼り絵を六枚つなぎ合わせると壮大な貼り絵になった。色鮮やかな気球がいくつも青空を行く。その壁画を「希望」と名付け、体育館の入口の壁に貼り付けた。
 又三郎はどこへ行ったのか。消息はまったく分からない。
 秋の遠足は、奈良県三重県の県境にそびえる曽爾高原のクロソ山に登ることになった。ススキの大群落が波打つ高原を歩いて、標高一〇三七メートルのクロソ山てっぺんに至る。脳性マヒによる障がいを持つヒロシは、この登山にも挑戦すると言った。クニヒロは生活ノートにこんなことを書いた。


 「登山のときヒロシが、『あの山、のぼられへん』と言ったので、『ぼくがてつだったろう』と言った。ほんとうは峠までやったけど、ここまで来たから もっと上まであがろうと、また登っていった。何回も落ちそうになったけど、ひっしでヒロシはのぼっていった。
 わたの君、田村君、沢田君もてつだった。そしてなんとか登れた。あのときは、よかった。やったあ、ヒロシ。」


 年を越して、三年生になった。ある日の放課後、生徒はみんな下校したものと思って、ぼくはぶらぶら教室に行ってみた。あれ、誰かいる。ヒロシだ。その隣に女子の学級委員長のリハラさんがいた。
 「まだいたのう?」
 「音楽の話、しています。」
とリハラさんは笑顔で言った。
 「ヒロシ君、ロックを聴いているんだって。私も好きだから。」
 ヒロシがロックを聴いているなんて想像もつかなかった。クラスで成績優秀な女の子と、障がいをもつヒロシとが、誰もいない教室で向かい合ってロックのお話をしていた。学級文化のなかで仲良しが生まれている。幸福とはこういうことかなあと、ぼくは二人を残してそっと教室を出た。