学校という器なのか世界なのか



 「学校砂漠」という言葉がある。
 学校が地獄に思える子がいる。
 公立中学校の職を辞してから教育研究をしている尾木直樹は、
「学校を離れて最も驚いたのは、いかに学校の内実が社会に知られていないかということでした。子どもと教師のリアルな息づかいが、ほとんど社会に伝わっていない。閉鎖社会の学校に、いかに外の風を送りこむか。二十年ぶりに中学校に入ったある教授は、『学校は博物館でした』と目を丸くした。学校の文化と価値は何も変わっていないのです。ここにメスを入れない限り、子どもは救われないし、教師も元気が出ません。」
と書いていた。
 女子大学で教えている内田樹は、
 「図書館で本を読み、チャペルでパイプオルガンを聴き、庭園で花を眺め、校舎を散策する。その時もし学生諸君が気づかないうちに、『何か美しいもの』『何か知的に高揚感をもたらすもの』を求めていたとすれば、それはすでに『学び』が起動したことを意味する。そのように無防備なまでに心身の感度を上げることを許す場こそ、学校という空間が学生たちに提供できる最良の贈り物なのである。新学期のオリエンテーションで、新入生に学校生活の基本的な心得を伝えた。それは『できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように』ということである。」
と書いた。
 「無防備なまでに心身の感度を上げることを許す場こそ、学校という空間が学生たちに提供できる最良の贈り物なのである。」
と言える学校。
 「できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように」
と言える学校。
 そう言える学校を、学校の当事者、教育関係者は目指しているか。