春を探しに教室を出よう


 この三日間、日差しが暖かく、日中の気温が上がって南風吹き、おまけに雨が降った。日陰になっていたガレージのトタン屋根に分厚く積もっていたさしもの雪もみるみる融けて、建物や樹木、田んぼの畦の、北陰に残った雪だけが、未だ風景のまだら雪になっている。
 畔の雪がなくなったその日、夕方のランちゃん散歩に出た家内が、今年の初物フキノトウを見つけて摘んできた。寒の雪の底にあっても、フキノトウは確実に育っていた。暖気を含んだ春日がやってきて、消える雪を待ちかねたように枯れ草を割ってフキノトウは芽を出した。夕食はフキノトウのてんぷら、淡い苦みが早春賦である。
 庭の6本のブルーベリーがまだ幼い苗の状態で、そこに積もった雪はなかなか融けずに残っていたが、それが昨日融けた。敷き詰めた木のチップの上に、なにやら黄色いものが見えた。フクジュソウだった。たった一輪、地面から花が首をもたげている。さらに観察すると、スイセンの葉っぱがにょきにょき出ている。腰をかがめて大地を探ると、米粒ほどの青い花が咲いている。イヌノフグリのようだ。カキドオシ、ホトケノザ、オドリコソウ、ナズナは、待ってましたとばかり、全力で生長を始める準備に入った。春は小さきものたちの命から動き出す。
 去年の夏、雑木林に芽を出していたクヌギ、コナラの小さな苗木を掘ってきて、植木鉢に植えて根付かせておいたのが、冬の間雪の下に隠れていた。雪が融け、姿を現したこの苗木は、居住区の公園に植えようと思っている。カブトムシやクワガタがやってくる木を公園に増やしたい。子どもたちが樹下に集い、虫の観察ができ虫とりができる公園にしたい。そして小学校、中学校の校庭に、広葉樹の小さな森をつくりたい。

 学校の先生方、いよいよ春です。
 お待ちどうさま。子どもたちといっしょに教室を出ましょう。
「みんな、春を探しに行こう」
「やったー」
「どんな春が見つかるかな。見つかった春をノートに書こうね。虫、見つかるかな。花咲いているかな。雪の下から何か見つかるかな」
 「春を探しに」は、1時間はたっぷりかかる。遠出すればもっとかかる。それでも価値がある。
 教室に帰ってきたら、発見した春を発表しあう。花や草の名前、虫の名前を図鑑で調べる。山や川の様子、流れる雲から春を見つける子もいるだろう。鳥たちも春を告げているだろう。学校に小さな森があるなら、木の下の落ち葉の下に虫がいる。木の芽もふくらんでいる。
 やっぱり、なんとしても学校に小さな森をつくりたいと思う。そのための運動を起こしたい。そのためにこの春、仲間をつくる。
 
 春を探しに、夏を探しに、秋を探しに、冬を探しに、
 教室に閉じこもらない、教室を出よう。
 林に行こう。

 春を探す子どもの姿を見て、教師は子どもに何を発見するだろう。教室では見られなかったことを、子どもの姿から教師は発見するはずだ。この子は勉強おくれているけれど、こんなに生き生きとしている。この子は虫が好きなんだな。あの子の観察力はたいしたものだ。教室では見られないことだな。
 春を探しに行って、春を見つけたときの子どもを見ておもしろがり、楽しみ、喜ぶ教師は、子どもの本当の姿を発見する。その教師の感性、知性、心が、子どもの個性、心を発見する。
 子どもを発見できない人、発見しようとしない人は、教師失格。