ヘビとゴキブリを飼っている

写真:おもしろいね、この家



 チンパンジーの研究家、松沢哲郎の文章が今日の教材だった。松沢は日本の動物心理学者・霊長類学者であり京都大学の教授である。
「声を出して教材を読んでください」
 マンツーマンの指導、シュンはぼくの前に座っている。シュンはためらうことなく朗読を始めた。大きくもなく小さくもない適度な声だった。
 1977年11月、京大の研究所に小さな一歳のチンパンジー、アイがやってくる。アイの眼を見ると、アイもこっちの眼じっと見た。それまで付き合ってきたニホンザルでは眼が合わなかった。ニホンザルの眼を見ると、「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒るかだった。ところがアイは、こちらがじっと見ると、じいっと見つめ返した。松沢は着けていた袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。するとアイはすうっと手をそこに通した。そしてまたすうっと腕から抜いて「はいっ」と返した。松沢は驚く。
 松沢のチンパンジー研究は「人間とは何か」の研究でもあった。チンパンジーにも心があり人間以上に深いきずながあるのだ。
 こういう要旨だった。
 シュンが文章を読み終えたところで聞く。
「どう? 理解できた? チンパンジーの話、おもしろい?」
「はい、おもしろい」
 顔を上げ、ぼくを見るシュンの目がきらきら光っていた。返事も生き生きしていたから、シュンは動物が好きだなと、ピンと来た。
京都大学はゴリラやチンパンジーの研究をずっとやってきた大学でねえ。山極寿一というゴリラの研究をアフリカの現地でやってきた人がいるよ。ゴリラの森に入っていって、背中を向けて地面に座り、少しずつ群れに近づいて、コミュニケーションする様子をテレビで見たことあるよ」
 山極は生活のほとんどがフィールドワークのようで、ゴリラなどの霊長類の研究を通して人類の起源を探っていた。そういう人が今選ばれて京大の学長になっている。松沢哲郎は、霊長類研究所所長で、日本モンキーセンター所長でもある。研究所で飼育されているチンパンジーに言葉を教えるプロジェクトに携わり、ギニアの野生チンパンジーの生態調査も行っている。
 シュンは通信制3年生、茶髪が黒に変わっていた。
「ちょっとやせた?」
「1週間ほど入院していました」
「へえ、そうだったの。もう大丈夫?」
「はい、ちょっとお腹の‥‥」
 ときどき教えてきたこの2年間にはなかった会話がそこから始まった。
「動物、好きかい?」
「はい」
「犬か猫、家にいるの?」
「ヘビ、飼ってます」
「ひえーっ、ヘビ?」
「外国のヘビです。熱帯のヘビだから、押し入れで、暖房入れて飼ってます」
「大きいの?」
「いえ、40センチほどです。脱皮して大きくなっていきます」
「毒はない?」
「毒はないです。かわいいです」
「ぼくはヘビはかわいいと思うけれど、手で触れないなあ」
「ぼくも最初、さわれなかった」
「餌さはどうするの?」
「ネットで、ネズミの赤ちゃんの冷凍したのを取り寄せます」
「生きた餌さでないと食べないのじゃないの。カエルなんかどうなの」
 それはいいけれど、カエルをつかまえるのは大変、それもそのとおりだ。ほかに何飼っている?
「ゴキブリ」
「ええーっ、ゴキブリ? 外国の?」
「はい、大きいです。卵を産んで、増えています」
 両手の人差し指と親指でシュンはマルをつくった。大きい。日本の黒ゴキブリの数倍はある。
「外国の、ワモンゴキブリというのが日本に入ってきたのはだいぶ前だったねえ。寝ている人の唇をかじったりしたことがあるとか読んだことあるよ。そんなゴキブリ、逃げ出したら大変だよ」
「はい、寒さに弱いので、寒いと死にます」
「そのゴキブリをヘビの餌にしたら?」
「ゴキブリの脚がじゃまだから」
「ヘビはなんでも飲みこんで胃液で溶かしてしまうよ。ほかに飼いたい生き物はあるの?」
「タランチュラ、蜘蛛。」
「クモー? 毒グモが日本に入ってきて、増えてるらしいよ。セアカゴケグモだったかな」
「サソリも飼いたい」
「サソリかあ。サソリなあ、ぼくは若いころヨーロッパからインドまで、砂漠地帯を野宿しながら旅したことがあってねえ。シリアやイランの砂漠、テントなんか張らないよ、星空の下で寝袋でごろんと寝るんや、靴を脱いでね、朝になって仲間が靴を履こうとして、ぱっぱと靴の中の砂を落としたらコロンと出てきたのがサソリ。危なかったなあ。その男は理科の先生で、イランだったかなパキスタンだったかな、町でホルマリンを買って瓶につめて日本に持ち帰ったよ」
「ピラニアも飼いたい」
「ピラニア? アマゾン川の魚の? ぼくが中学生の時、町の映画館でみた記録映画やが、ピラニアにマッチ棒を近づけたら、パクっとかみついて、ちぎってしまったよ」
 次から次へ、怖いのが出てくる。外来生物が輸入されて、問題にもなっているから気をつけなければならないよ。放してはだめだよ。
 それにしてもシュンの趣味はおもしろい。一人家にいて、好奇心や興味の赴くままにこんな飼育をやっている。
「君のその生物への興味、関心と飼育する楽しみねえ、飼育や観察をしたいというの、本格的に追求したらいいなあ。動物園は?」
「ときどき行きます」
「お父さん、お母さんは何も言わないの?」
「はい」
 そこでぼくは、
「動物園の飼育係をめざしたらどう?」
と言ったら、むにゃむにゃ自信がなさそう。
「好きなことをやりつづけるのがいいよ。好きなことを仕事にしていくといいよ」
 それからぼくは昆虫に熱中した少年の話をした。手塚治虫もそうだった。養老さん、ヘルマンヘッセ、ファーブル‥‥、たくさんいる昔の昆虫少年。
 シュンは来年3月に卒業する。父はアメリカに親戚がいるからそこへ行ったらと言っている。
「そうかあ、アメリカへ行くとしても、自分の好きなことをどこまでも追求していった方がいいよ」
 生物学者であり独自の進化論を唱えた京都大学の故今西錦司は、京都の西陣織の家に生まれ、ほとんど奉公人の手で育てられた。こんなことを書いている。
「騒々しい環境にもかかわらず、そこからしばしば抜け出せる場所の用意されていたことは私にとって幸せであった。それは座敷に続いた庭である。私はその庭でヒキガエルの棲み家やコオロギの隠れ場探しに熱中することができた。家から3キロほど離れた上賀茂には、祖父がときどき気晴らしに行くために建てた家があった。家といっても座敷が一間しかないちっぽけな家であったが、この家の庭は広く、祖父の好みで大きな池が作ってあり、その中にはたくさんのコイが泳いでいた。庭に続いて裏庭があった。この裏庭は柿の木や柚子の木が何本かあったほかは、雑草の生い茂るままに任せてあったが、私はこの雑草の中に、人工の加わらない自然の片鱗を初めて見出したのである。私はしばしば祖父のお伴をして、この上賀茂の家を訪れた。そんなとき父はいつも、弁当持ち兼私の遊び相手に、店から私と同年輩の丁稚をつけてくれた。ドジョウ、ホトケドジョウ、ドンコ、ゴリなどという魚と親しくなっていった。朝早くから番頭や丁稚と一緒に、カブトムシをとりにいったこともある。これはクヌギの木から出る蜜に集まっているところを捕らえるのである。そのうちに庭に飛んでくるチョウを捕らえてピンでとめ、箱に並べて楽しむようになった。」

 さて、勉強が終わってシュンが帰るとき、
「自分の好きなことをどこまでもやるんだよ。そのヘビ、一度見たいなあ」
と言うと、うれしそうに笑って帰っていった。