問題発言という現象

 

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 大臣や政府関係者の発言が問題視される事態が続いている。その発言によって、大臣が辞任するというニュースも今朝の報道であった。

 人間の発する言葉の意味するものが問題となるのだが、言葉だけが問題視されてしま

うと、重要なことが抜け落ちていく。「口は災いの元、気を付けよう」で終わるから、

本質は何も変わらない。本質が変わらない人間がお詫びする。だから、お詫びの言葉がとおりいっぺんの共通語になっている。

 なぜそのような問題発言が出てきたのか。何が問題なのか。その人の、どのような思想、思考、知性、感情から出てきた言葉なのか、すなわち言葉の奥に潜むものが問われることが少ないから、そして本人もそれを問おうとしないから、根本的な解決に至らない。また繰り返す。さらにもっと悪質になる。このような事態が、その世界の土壌となる。

 なぜ本質的なところで変わらないのか。

 いつも思うのは、どうしてこういう人が政治家になり官僚になったのか、という問いである。なぜそういう人が政治家になっているのだろう。官僚の生きている世界の実態はどうなっているのだろう。

 結局そいう人間を生み出す土壌がドカンと存在するのだ。政治の世界、官僚の世界、さらには日本社会のなかに、その土壌がある。それが問題なのだ。司法の土壌、教員の土壌、警察の土壌、そこでどんな人が育っているか。地域社会という土壌、そこでどんな市民が育っているか。

 今朝の新聞で、憲法学者の蟻川恒正が「憲法季評」に書いていた「横畠長官発言から見えること 崩された内閣法制局の自律」という小論は、重要な指摘だと思った。

 問題の本質に気づかないで、言葉だけの問題としてしまうから、気づいた時にはすでに、コトは危機的に進んでいた、ということになる。