主権者教育という提案を読んだ


 今朝の新聞のコラムで編集委員の曽我豪氏がこんなことを書いている(要旨)。
 <選挙権年齢を「20歳以上」から「18歳以上」にする公職選挙法改正がこの国会で成立しそうで、早ければ来年夏の参院選から実施される。次の学習指導要領の改訂で、「公共」といった規範意識や主体的な社会参画を学ぶ科目も新設されるだろう。その先には、「18歳以上」に引き下げられた憲法改正国民投票法が控えている。安倍晋三首相は国会答弁で「若者の声が政治に反映することに意義がある。政府としてはまず、学校と選管と地域が連携し、主権者教育を進めていく」と語った。
 20年以上前から若者の主権者教育の必要性を主張してきた名古屋大学大学院法学研究科の小野耕二教授(64)は、法学部生の意識調査で、今年1月、18歳投票について677人を対象にした調査(回収率48%)では、賛成は54%、反対は24%、どちらとも言えないが18%だった。昨年末の20歳未満の学生に「一番好きな政党は」と聞くと、自民党34%、民主党10%、維新の党8%、「好きな政党はない」がトップの42%だった。
 小野教授はこのことについて語る。
 若者の反応は、今の政治の現況をそのまま反映したものだ。本来、政治とは崇高なもの。異なる意見や不満を持つ相手と寛容の精神をもって協議し、よりましな解決策を探す。それは、学校でも会社でも地域社会でも、みなが体験する合意形成の技術である。ところが国政になると、政治家は有権者を票としか見ない。有権者は自分の票が政治を変えるという有効性を感じていない。メディアは争点を単純化して、政治の価値を過度におとしめる報道を続ける。若者の反応は、その三すくみの負の連鎖の反映ではないか。
 小野教授は近年、主権者教育の提言を重ねてきたが、そこで戦後教育をこう総括する。
 政治的中立性の要求が非政治性の要求と誤解され、政治的テーマなどを取り扱うこと自体が避けられてきた傾向にある。政治的・社会的に対立する意見を取り上げ、政治的判断能力を訓練することは学校教育の場では全く行なわれていない。それに対して欧米では、選挙時には政党や選挙事務所から直接話を聞いて現実の争点を学び解決策を議論する教育が主流となっている。だが日本でそれを行なえば、学校に抗議する親も出てきそうだし、教師もそれを想定して萎縮する。かくして意識は現実の社会問題から隔絶し、投票率は低く、政治に何の希望も持てない若者層が再生産されていく。それは政治の危機である。それを避けるには、現実政治に触れさせる思い切った主権者教育が必要で、何よりわれわれ大人の側が発想を転換するよりほかない。
 小野教授のこの意見に曽我氏も共感し、「日本で選挙権が18歳に与えられても、若者にとって選挙はまったくリアルにならない。教師や文科官僚、政治家、有権者、メディアは政治の勉強をし直すべきである」と「ザ・コラム」に書いている。(「朝日」)
 学校では、ディベートして自分なりの答えを探す授業や、教室での議論は、あまりに少ない。政治家と政治というテーマになると、授業でも家庭でも友人関係でも皆無に近いのではないか。子どもだけでなく、教師同士の議論も少ない。これは深刻な状況である。これまで、政治にかかわる教育をすると偏向教育だと攻撃する動きがあり、だから「触らぬ神にたたりなし」と主権者教育など発想さえされずにきた。小野教授が、「政治教育」と言わずに「主権者教育」という表現をしているのもうなずける。
 子どもたちは、小学一年生から自分のクラスをつくっていく「主権者」として、みんなでクラスの問題、友だちの問題、生活の仕方を話し合う体験を積み、自分の意見を持ち、意見を出す力を養う。授業も「仮説実験授業」に学び、「知識を教える」一辺倒の授業ではなく、子どもたちで異なる見方を出し合って、究明し発見していく授業を創造していく。
 今の子ども、若者を見ていると、「流されていく」「我関せず」「お任せ」「なるようにしかならない」「空気やムードで動く」「議論なんかわずらわしい」などが、じわじわ深刻になってきているように感じる。「若者の声が政治に反映することに意義がある」というなら、意見を封じ込めている学校を変えなければならないと思う。
 そして今朝の新聞のトップ記事、大見出しは、
 「自衛隊 海外派遣拡大へ
  憲法解釈の変更 法制化」