教育の原点

 ぼくが愛読するブログに「困らないけど、いいですか」というのがある。筆者は新間早海さん。
今年の一月か二月、そこに、「子どもはまったく完成されていて、かつ未完のまま」という記事があった。
 記事は担任教師と子どもたちの距離感がどんどん縮まっていくと現れてくる子どもの自由が生み出す現象について考えている。

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 子どもたちの距離感が近くなっています。
 わたしが気にするであろうことを、サッと感知して
「あ、先生、〇〇くんは校庭行ったー」
「先生、〇〇しといたよ」
「先生、数、かぞえたよ」
「先生、消しといた」
「先生、チョーク足りなくなってきたよ」
 自分勝手に判断して、どんどんと自分たちの生活を成り立たせていきます。すでにこの世を満喫しているのです。
「先生、ソリ作ってきたぞ」
 段ボールに家庭用のごみ袋をかぶせたソリ。
「おお、すげえ。みんなですべろう」
 みんな校庭の坂に走っていきました。一人ひとりが、勝手なことをやっている、なんともいえない幸福。
 ああでなければ、こうでなければ、と子どもにいろいろ思う時は、彼らには何もかもが不足していて、なんでもっとこうならないのか、と責めたり叱ったり、鍛えて良くしなければという気持ちが湧いてくる。
 ところが、朝の始業前、鼻歌をうたいながら教室に入ってくる彼らを見ていると、そのしぐさは一つ一つ、すべて実にユニークさ、面白さで満ちている。
 彼らは生きていて、はじけるその命の証を見ていると、けっして人としてなんら不足するものは無い。面白くて優しく、友だちが大好きで大切に思う子ばかりで、
目に見えるもの、そのへんにあるもの、世のすべての物を楽しがり、
新しいことを覚えようとし、できるようになろう、と伸びていこうとする。
どの人格もすばらしく、人として尊敬できる。
 あなたが好きで、あなたとの関係に満足し、満ち足りて、まわりを幸せにする。それがどうして、じつに不完全に見えることがあるのか、不思議になる。
 彼らは未完である。しかしまったく、完成されている。

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 読んでいて、そのクラスの楽しい様子が想像できる。
 距離はどうして縮まるか、それをぼくは考える。
 距離は縮まらないものだと思っている人もいる。距離は縮まらないのが当たり前で、だから秩序を保って授業が成り立つと思っている人もいる。距離が縮まれば、なめられて友だち感覚になってしまう、と思う人もいる。
 距離を縮めたいと思うが、どうしていいか分からない、という人もいる。自分の性格上距離は縮まらないとあきらめている人もいる。
 段ボールに家庭用のごみ袋をかぶせたソリを持ってきたのを見た教師が、
「そんなのを学校にもってきてはいけません」
と言ったとたんに、すばらしい宝物はごみになってしまう。
 教師の考え方、意識、感情、こうあらねばならない、こうせねばならない、としている枠に縛られていたら、教師と子どもの距離は近づかない。そういう教師では「道徳」の授業はまず成り立たないだろう。
 このブログの先生は、
「自分勝手に判断して、どんどんと自分たちの生活を成り立たせていきます。すでにこの世を満喫している」
と満足して、顔じゅうで笑っている。
「一人ひとりが、勝手なことをやっている、なんともいえない幸福」
 子どもたちが幸福になる。そして教師が幸福になる。いたずらや遊びや冒険や創作を楽しんでいる子どもたちは、子どもとして完成されている。
 ここに教育の原点がある。