加美中学1985年卒業生同窓会 <1>


 道頓堀ホテルの宴会場で大阪市立加美中学1985年卒業生徒たちの同窓会があった。ぼくは加美中学には1979年から1989年まで勤務した。剛史君から「ぜひ出席を」との要請電話が来たときは、膝の痛みもあって出席することは無理だなあと返答していたが、ぼくのクラスだったワンパク明秀君が、長距離トラック運転の道中から何度も電話をしてきたことから考えを改め、膝の痛みぐらいで行かないわけにはいかん、辞退することはやめようと決めた。
「分かった、出席する」
と明秀君に返事したら、剛史君からまた電話があって、
安曇野まで車で迎えに行きますよ。」
「いや、そんな必要はないよ。杖ついていくよ。」
というわけで、ついでにいろんな人に会ってこようと三日間の大阪での計画を立てた。6日、土産にする栗やらクルミやらリンゴなど重い荷物ををもって出かけたのだった。台風が心配だったが、幸い大阪には特に影響はなく、懐かしい面々に会えるのが楽しみで、夜7時から始まる同窓会に出るべく特急しなの号と新幹線を乗り継いでいった。
 久しぶりに大阪の街を歩くと、海外からの観光客が目立つ。道頓堀川はどんより濁った緑の水が、動いているのかも分からない。これでもちょっとはきれいになったのかなと思う。
 会場に着くと、そこにいた数人の視線が、ぼくに向けられ、一二秒の観察でそれがヨッサンだと分かると叫び声が起きた。四十台だった時のヨッサンは今や八十。すっかり変わった。集まってきたのは68人。これまで一度も開かれなかった同窓会、もう48歳になる「おっさん」、「おばさん」たち卒業生と老教師との再会、「どの子も」歓声を上げた。やはり「どの人も」ではなく、「どの子も」という思いになる。中学時代の面影がよみがえってくるのだ。だから、堂々たる仕事盛りの社会人も不思議なことにぼくの眼には少年少女に見えてくるのだ。見えてくるというより、彼らのなかの少年少女が戻ってくるのだ。だが33年間という空白は長かった。だからぼくの記憶の底から会った瞬間に当時の顔が浮かび上がる子と、しばらく浮かび上がってこない子とがあった。はて「この子」はだれだったかな、申し訳ないな、という思いが湧く。
「よう、直子。おう、純子。いやあ、アベチン。」
 声が弾み、ハグする子もいる。
 その当時の同僚教師であった安井さんと河野さんがやってきた。安井さんは60歳の還暦を迎えていたから、会の進行の中で、世話人があらかじめ準備していた「赤いちゃんちゃんこ」をステージで安井先生に着てもらうという演出があり、会場は笑い転げた。
 出席できなかった当時の教員たちを事前に訪問してもらってきたメッセージと映像もスクリーンに映された。ぼくは彼らが一年生だった時の記録「ワンパク学級」という文章を朗読して聞いてもらった。
 「いったいどうやってこれだけの人数を集めたの?」
 住所録もなく、住所の変わった人も多い。いったいどこに住んでいるのか分からない。女性は苗字も変わっている人が多い。どのようにして計画を伝えたのか。剛史君に質問した。
 「ラインを使って、卒業生から卒業生に連絡しました。」
 友から友へ、人から人へ、そうして波が広がっていくように企画は伝えられた。
 「ラインで伝えられなかった人もたくさんいます。」
 結局ラインで伝えられた人のうちから68人が来てくれた。剛史君から始まった企画。一人から始まり、十数人の世話人の仲間が生まれ、そして情熱の波は広がった。しかしラインの届かない人もいた。
 7時に始まり10時前までつづいた会は、温かかった。なんとも素朴で人情のあふれる、心の開かれた楽しい会だった。最後に校歌をみんなで歌った。
 彼らが用意してくれたホテルの一室にぼくは泊まった。ほとんどの人が二次会に行ったが、ぼくは行かなかった。安井さんもホテルで泊まり、翌朝朝食を共にして、当時の学校と教育について語り合った。彼もまた、今の教育を強く懸念していた。教育はどうなるのだろうと。