第三次世界大戦前夜

 

 

 

 

  ノーラン監督の映画「オッペンハイマー」が、アカデミー賞をとった。核戦争の危機が迫っていることへの危機感がにじみ出ている。プーチンがまたも核兵器の使用に言及している。第三次世界大戦前夜の空気が漂い始めた感じだ。

以前も、このブログに書いた,渡部良三の「歌集 小さな抵抗」を再びここに書く。

 

     1900年、内村鑑三39歳、彼は無教会キリスト教を説いた。日露戦争前夜だ。鑑三の呼びかけに応えた東大生の政池仁は、山形県の山村に布教に入った。無教会キリスト者になった渡部良三の父は政池を支えた。政池は、1936年、非戦論「キリスト教平和論」を刊行した。

     渡部良三は1922年に生まれ、1944年1月、学徒出陣で、中国河北省の部隊に送られることになった。日本を発つ前夜、父は良三に諭した。

    「人間として、神の御心にかなう行動をする余地が必ずあるはずだ。常に胸を開き、神に祈ることを忘れるな。」

   良三は中国の戦地に赴く。それは実に過酷な戦場体験であった。上官は訓練で、新兵に捕虜刺殺を命じた。新兵たちはためらい、懊悩し、命令に従う。しかし父の教えを守る良三はそれを拒否した。上官は良三に激烈なリンチを行った。

   「歌集 『小さな抵抗』 殺戮を拒んだ日本兵」(岩波現代文庫)は、その記録である。

    良三は体験を短歌に詠み、それをトイレの中で書き記した。その紙切れは、服の中に縫い込んで隠した。

 

       這いずりて 銃を捧げて 営廷を

        三度まわれば ひじは血を吹く

 

           救いなき酷さの極み

           演習におごれる軍は 捕虜殺すとう

 

           朝 友と掘り上げたりし 大き穴

           捕虜の墓穴とは 思いよらざり

 

    上官は捕虜虐殺を命じた。耐えかねて、戦友が一人逃亡した。

  

           友よ しっかと逃げよ 

           さがすべく 隊列組みつつ 祈る兵あり

 

           逃 げおおせ 逃げのび行けよ 地の果てに

           兵の道など とるにたらねば

 

   逃げ去りし 友をもとめて 野を行けば

           河北に麦の青 はだらなり

 

           天皇の兵を捨てしは 逃亡ならず

   自由への船出と 言いてやりたし

 

    良三も捕虜虐殺を拒んだ。殺される捕虜を、現地の村人たちが遠くから見ていた。

 

           命乞う母ごの叫び 消えしとき

           凛と響きぬ 捕虜の「没有法子!」

 

     村人たちが離れたところから見ていた。捕虜の母に、殺される捕虜は叫んだのだ。「没有法子!」、しかたがない、あきらめよと。

  そのとき、良三の耳に、大いなる者の声が響き渡ったのだ。

 

           鳴りどよむ 大いなる者の声聞こゆ

      「虐殺こばめ 生命をかけよ」

 

   虐殺を拒めるわれを 見つむる眼

   なかば諾(うべ)なう されど黙して

 

   すべもなき 我の弱さよ

          主の教え 並みいる戦友(とも)に説かず立ちいつ

 

          「捕虜殺すは 天皇の命」の大音声

            眼するどき 教官は立つ

 

    良三は虐殺を拒み通した。彼へのリンチは凄惨だったが命は保たれた。そしてヒロシマナガサキの原爆投下があり、日本は敗戦、日本軍は武装解除された。日本軍兵士は中国軍の捕虜となり、やがて日本に帰国することになる。しかし、満州に入植していた日本の農民や、日本の関東軍兵士は、ヒロシマナガサキの後に、満州に攻め込んできたソ連軍の捕虜となって、シベリアに送られた。そうして酷寒のシベリアで、多くの抑留者が死んでいった。

    日本人捕虜に対する扱いは、中国とソ連とでは大きく異なっていた。

    徐州駅から復員列車が出た。その時、中国の子どもたちが走ってきて、「再見! トウベエ(渡部)!」と叫んで、走りながら別れを惜しんでくれた。以前に耳だれの病気を治してやった子どもだった。

 

   再見の 続けさまなる声聞けば

     わけの分からぬ 涙あふれ来

 

 

    歌集「小さな抵抗」の最後に、今野日出晴が次のように書いていた。

    「人を殺してはならないという倫理規範から、敵は殺さなければならないという規範に転換させるものが、軍隊であり、戦争であるとすれば、ここに示されているのは、敵も殺してはならないという倫理規範を現実に実践した人がいたということである。

    内村鑑三以来の無教会主義の絶対的非戦論を思想として継承した渡部良三は、それを体現したのである。」