桃太郎の話


 12年前、中国武漢大学で大学院生の授業をしていたとき、女子学生の王さんがこんなことを言った。
 「日本の桃太郎の話は、鬼が島へ侵略した話です」
 そういう見方は日本で、1970年代の部落解放教育運動のなかでぼくは聞いたことがあった。そのときは、「おー、そういう見方もできるなあ」と、子どもの話にも含まれている秘密を見つけたように刺激的だった。中国の学生もこういう見方を知っているのは中国の学者かだれかが言ってるんだなと思いつつ、ぼくはことさら肯定も否定もせず、ただこうだと断定的に結論付けるのではなく、いろいろ究明していく考え方をしていこうよ、と言った。日本の侵略を受けて大きな被害をこうむった歴史を持つ中国の人たちからすれば、うがった見方というより、素直に読み取れる見方なのかもしれないとも思う。
 今日の朝日新聞池澤夏樹氏が「桃太郎と教科書 知的な反抗精神養って」という論を発表している。要約するとこういうことだ。
 池澤氏が書いたエッセー「狩猟民の心」が、平成10年度から14年度まで高校教科書で使われた。それに対して、前衆議院議員義家弘介氏が産経新聞で「これは子どもたちに供するにふさわしくない」と論じた。
 池澤氏の書いた文章は、
 「日本人の(略)心性を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは『桃太郎』だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、きび団子というあやしげな給料で雇われた傭兵なのだ。(略)彼らは鬼が島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない。」
 この教科書教材に対して義家氏はこう批判した。
 「おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子どもたちの元に届けられたという事実に私は驚きを隠せない。偏向した教師が、日本人の心性とはどのようなものであると筆者は指摘しているか書きなさいという問題を作成したら、生徒たちは『侵略思想』と答えるしかないだろう。」

 この記事に対して、池澤氏は今朝の新聞に書いている。
 「伝統的な日本人なら唖然とする、そこのところが言いたかったのだ。ぼくは子どもたちに唖然としてほしいのだ。悲しいことながら、本当は『人間の心性は』と書くべきであった。」
と述べながら、明治期に福沢諭吉が自分の子どものために書いた「ひびのおしへ」のなかの次の文章を紹介している。原文は全文ひらがなで、歴史的仮名遣いに文語なので、現代語に直すと、こうである。
 「桃太郎が、鬼ヶ島に行ったのは、宝を取りにいくためだと言った。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にしまっておいたもので、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を、わけもなく取りにいくとは、桃太郎は盗人とも言うべき悪者である。もしまたその鬼が、ほんとに悪い者で、世の中の妨げになることをするのならば、桃太郎の勇気でこれをこらしめるのは、はなはだよいことだけれど、宝を取って家に帰り、おじいさんとおばあさんにあげたとは、ただ欲のための仕事であり、卑劣千万である。」
 池澤氏はまたこんな例をあげている。
 日本新聞協会が開催した広告クリエイティブコンテストで最優秀賞に選ばれ、東京コピーライターズクラブの最高新人賞を受賞した作品は、鬼の子が泣いている絵の上に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」という子どもの字のコピーがある。
 最後に池澤氏はこう結んでいる。
 「教育というのは生徒の頭に官製の思想を注入することではない。そんなことは教師出身の義家さんは先刻ご承知のはず。一つのテーマに対していかに異論を立てるか、知的な反抗精神を養うのが教育の本義だ。ぼくの桃太郎論を読んだ生徒が反発してくれればくれるだけ、ぼくはうれしい。」

 さて、ぼくはどう考えたか。
 生徒は高校生である。この池澤氏のエッセーを読んで、それで一方的な思想と見解を注入されることになるだろうか。ノーである。
 国語教科書のなかに採用されている教材は、いろいろと考える材料を含んでいる。国語教育は単なる読解ですませるものではない。しかし多くの学校の授業は単なる読解で終わっているのではないかと思う。授業がそういう授業なら、まずほとんど教材は生徒の頭を通過するだけで終わってしまう。テストがあるから生徒はそれで勉強もするだろうが、思考が練られることがない。価値観が揺さぶられることがない。生徒たちに教材が含み持っている価値観を注入するなんてことはまずできない。
 自分の頭で考え、固定観念をゆさぶり、真理真実を発見することや、理想や希望に近づくための生き方考え方を見つけようと、生徒たちが異なった意見、多角的な見方を出し合い、教師がそれを引き出していく、そういう授業が生み出せたら、むしろ義家氏の言うような「伝統的な」教育価値観に縛られず、自由な発想と科学的思考の鍛錬できる学びになるだろう。そういう授業を創造しようと日夜苦労してきた教師を「偏向教師」呼ばわりしてきたのはどういう勢力だったか、歴史のなかの軌跡は鮮明である。

 ぼくがこのエッセーを教材に使うなら、生徒たちが小学校で読んだかもしれない「泣いた赤鬼」(浜田 廣介)やその他の教材を入れながら授業をしたいものだと思うが‥‥。