生徒の命を奪った教育


 子どもの頃、あるいは大人になってからでも、「小さな悪」、「小さなズル」をしたことのない人はいるだろうか。あの時のあの行為、大概の人は思い当たることがあるだろう。そして、そのことの「小さな罪」が、自分の心の戒めになっていることに気づくだろう。
 ぼくにもその経験がある。万引きをすればどんな気持ちになるだろうかと、120円の小さなオモチャを万引きした。ばれなかった。けれど、そのときの怖れ、気持ち悪さ、嫌な思いが、二度としないという戒めになった。
 子どもはヤンチャをして、いたずらをして、時にはごまかしやズルもして、そうした体験から感じるものによって、心は育っていく。
 3月17日の声欄に、元高校教員のこんな投書が載っていた。
 <広島県の中学3年生が、万引きしたという誤った非行記録によって志望高校の「専願」受験を認められず自殺してしまった。原因として多方面から指摘されたのは、学内における生徒指導のデータ作成や、情報伝達・共有のずさんな態勢である。死を無駄にしないためには、情報管理について徹底した検討と対策がが必要だ。しかし、再考されなければならないもっと重要なことは、学内の指導システムではないのか。万引きなどの過ちは、生徒にしっかり寄り添って指導を徹底すれば反省させることが十分にできるはずだ。一度でも万引きなどの過ちを犯してしまうと、推薦が必要な専願受験を「できない」とするのは、「指導」というより「脅し」であろう。生徒にとって受験とは自分の人生がかかっていると思うほどの重大事だ。自殺した生徒は、「どうせ言っても先生は聞いてくれない」と保護者に話していたという。この学校において最も大事なことは、教員と生徒の十分な信頼関係にもとづく本来の生徒指導に立ち返ることではないだろうか。>(朝日)
 この投書の続いて、女子高校生の投書が載せられていた。要約すると、
<私は、学校側のミスで高校の推薦入試が受けられなくなり、大きなショックを受けた。そのとき学校のシスターが私を抱き締め、涙して、「起こってはいけないことが起こりました。でも、この試練は、あなたに耐えられる力があるから神様がお与えになったのだと思います。しばらく頑張らなくてもいい。だけど心を強く持ってね」と言ってくれました。この言葉がなければ。私も広島の生徒のように自分を追いこんでいたかもしれません。私は第一志望校に合格しました。苦しみ続けた日々には意味があったと今なら言えます。広島の中学生には支えてくれる人が校内にいなかったのでしょうか。こんな事件が二度と起きないように心から願っています。>

 ぼくの頭に45年前の事件が浮かんだ。
 東京・麹町中学校に在学していた男子生徒が、当時高校・大学で火を吹いていた学園闘争の影響を受けて自分の中学校で活動を行った。そのことが高校受験のときに中学校が作成する内申書に書かれ、受験の面接では思想にまつわる質問を集中的に受けた。受験した全日制高校は全て不合格であった。全日制を断たれた彼は定時制高校に進学した。だが、そこも中退した。
 この出来事は裁判闘争に発展した。学生運動経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害された。被害生徒は千代田区と東京都を相手どり、損害賠償請求訴訟を起こした。当時大阪の中学校で教員をしていたぼくはこの事件を知り、黙っているわけにはいかないと、その裁判闘争を支援する会に加わった。一審の東京地裁は原告の請求を認めた。が、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、原告敗訴。最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではない」として上告を棄却した。ぼくは、この判決は欺瞞であると思った。学生運動に参加したことを記せば、高校側がどう判断するか、その記載によって思想・信条を判断し、不合格にすることは自明のことである。進路を閉ざすであろうその記載を、中学校の教師は予想して書いたのだろう。
 
 それから45年。
 今回の事件、万引きをしていないのにしたとされ、進学の夢を断たれて自殺したと報道されている。この痛ましい事件にぼくは、変わらない日本の学校教育と進路指導と内申書の欺瞞を想う。観念の所産がいつも密かに行われている。教師の想いによって、筆一本で、生徒の人生、命が左右される。
 担任教員は、およそ面談にはならない廊下の立ち話を面談とし、そして得た「万引きしたのだろう」という予想を「事実」として、高校進学の決め手に使った。これは教師の人間性の問題であろうか。人間を育てていくことを務めにしていることを自覚している教師であれば、生徒が仮に万引きしていたとしても、その情報を進路指導に使うことはない。
 このような教師のありようがまかり通る学校教育の根源の問題が問われなければならないのだ。
 
 45年前の内申書裁判、原告の名は保坂展人。それから月日が流れた。
 ある日、新聞報道の政治家の中にその名前があることに気づいた。ああ、彼は、政治の世界に入ったのだ。
 保坂展人宮城県仙台市に生まれた。衆議院議員3期、社会民主党副幹事長、総務省顧問等を歴任、教育ジャーナリストとして活躍。そして2011年4月、東京都世田谷区長になった。