卒業


 もうすぐ卒業していく子どもたちへの担任教師の熱い想いがEメールで届いた。

 <卒業ということが、こんなに自分の心を揺り動かすとは思ってもみなかった。
今のわたしは、自分でも驚くような「惜別の情」に悩まされている。自分は、もっとあっさりしたタイプだと思っていたがなあ。
 正直、子どもたちが、かわいくて仕方がない。男子が6年生らしからぬほどのやんちゃを振りまきながら、真剣に鬼ごっこをしてから教室に戻ってくる姿さえ、なにか本当にかわいくてならぬ。この子たちと、ほんのあと何日かでさよならすることを思うと、なんだか、ちょっと目にゴミが入ったかのようで、涙腺が……という感じ。
 一人ひとりが、今までよりも、すごく大きく見える。>

 久しぶりに触れたその想いに、若かりし日の担任教師としての記憶がよみがえった。この記憶は、冷気を含んだ早春の日の光ととともにやってくる。教師になって最初の卒業式は、講堂がまだなかったから運動場の青空卒業式だった。ベートーヴェンの「田園交響曲」で始まった式の終盤、「蛍の光」の斉唱になると思いがけず涙があふれた。ぼくは涙を生徒たちから見えないように顔を上げていたが、空は涙でぼやけた。教室から椅子を持ちだしてグランドの土に並べた生徒席の、一番前に高君が座っていた。歌が終わって生徒席に目をやると、泣きそうな表情をしてぼくをじっと見つめる高君の顔が目に入った。式が終わって最後のホームルームに教室にもどると、黒板いっぱいにクラス全員の別れの言葉がぎっしり書き込まれていた。
 生徒同士が、さらに生徒と教師とが、親しく深い関係性を結んできたクラスであったから、その時の記憶は鮮烈に残っている。
 
 Eメールを読んでからぼくは学校に向かった。
 今勤務している学校の通信制の卒業式は先日の日曜日に行なわれた。その卒業式に出られず、卒業証書の授与を延期された生徒が一人いた。スクーリングの日数が足りず、それを満たすために数日登校しなければならなかった生徒であった。ぼくはその生徒の最後の3時間を一緒に過ごした。午後4時になれば、卒業の条件は完全に整う。それまでぼくは彼と向かい合って話をした。
 家庭の事情で高校を中退して、アルバイトをしてきた。2年ほどして通信教育で高校資格を取ろうと思った。今働いている会社で将来正社員として働きたい。それが夢だ。夢の実現にむけて、英語と中国語で会話できるようにしたい。さらにコンシェルジュになろうと思えば、信州の地理、歴史、自然、観光事業などの勉強も必要だ。そしてお客さんに、この人に出会ってよかったと思ってもらうには、心からその人が希望していることをかなえられるようにサービスしなければならない。
 話は広がり、ウエストンの日本アルプス探検記から、旧制松本高校の学生の話、塩の道、松本市内の古本屋から東京神田の古書店街の話、徳川幕府の政策から東海道中山道の話……、とどまるところを知らず。
 午後4時、ぼくはまたドイツ学生の出発を讃える歌を歌い、彼の出発にエールを送った。もう会うことはないだろう。彼は感謝のことを述べて、満面の笑顔で帰っていった。

  朝のメール。
 「子どもたちが、かわいくて仕方がない」、これこそ教育の真髄なのだ。親にしても教師にしても、そうであるから子どもの命が育つ。
 「やんちゃを振りまきながら、真剣に鬼ごっこをしてから教室に戻ってくる姿、本当にかわいくてならぬ」、思い切り遊ぶ子どもを見ると感動する、かわいく思う、それこそが教師だ。
 「一人ひとりが、今までよりも、すごく大きく見える」、そう、そう、子どもたちが今生きることに一生懸命であるとき、自分を生き生きと発揮しているとき、子どもは大きく見える。全身で生きる子どもたちは大きく見える。子どもは小さくて大きい。場合によっては、大人より、教師より、大きくエネルギッシュで、聰明な存在だ。


 森 毅(1928年生)がこの頃新聞にもテレビにも出てこないなあと思っていたら、 2010年に亡くなっていた。あー、惜しいことをした。京大の名物教授で変わりものの数学者、評論家、エッセイストだった。
「戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生やった。要領と度胸だけは抜群の受験名人や。それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた」という「おもろい人」で、「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが持論。この人は、自分もそうだったから、枠からはずれたやんちゃな子が好きだった。普通ではない変わった個性の子がいたら、そういう子をおもしがるのが教師というもの、子どもはほんまにおもしろい。子どもをおもしろく思わない人は教師失格やと言っていた。