2025-01-01から1年間の記事一覧
<つづき> 「世界がもし100人の村だったら」を読んだ学生たちの感想文は、一人1000字から2000字に及ぶ長いものだった。次は、何人かの感想文の一部。 張君華 中国の雲南省に、珍しい樹があります。「紅豆杉」と言われている樹です。この樹の皮の中に、1%…
かつて「世界がもし100人の村だったら」(再話:池田香代子、論考:政治学者ダグラス・スミス)を読んだ時、これを教材にしようと思い、日本から中国に持っていった。武漢大学日本語学部の日本語授業で、この「世界がもし100人の村だったら」を教材にしたあ…
朝日新聞の切り抜き記事「人脈記 イラク深き淵より」を再読した。過去の記事だけれど、またも、しみじみ感動がこみあげる。 イラク戦争から帰還した米軍兵士が集まる会。その一室で、帰還兵が、自分をいやすために、戦争体験を書いていた。それは、書くこと…
2002年・2003年、ぼくは武漢大学に、妻と共に赴任し、日本語教員として中国の学生たちと暮らした。それは感動的な日々だった。 武漢大学での授業用に、たくさんの音楽のCDや映画の録画を、大きなダンボール箱6箱に入れて、船便で送っておいた。 大阪市立加…
「さだ・まさし」を、ぼくは「吟遊詩人」と呼んでいる。メッセージ性の高い彼の歌は、何度聴いても心にしみる。「かかし」という、妹を想う歌がある。 元気でいるか まちには慣れたか 友達出来たか さびしかないか お金はあるか 今度いつ帰る‥‥ ‥‥山の麓 煙…
藤原新也が1995年、こんな文章を書いていた。 ☆ ☆ ☆ <村を訪れ、寺の墓地に行ってみた。そこで見たのは、一人の大工が息子と二人で塚(墓)を建てているところだった。尋ねてみると、村民の戦没者の墓石が倒壊したままなので、建て替えるのだと言う。私はこ…
夜が開け始めた。窓の外は霧が出て、白一色の世界だ。 服を着こんで外に出ると、わずかな時の間に、野の霧は消え、西の山に向かって歩く。西の山並みの麓には霧が帯状に残っている。東を振り返ると、犀川からまだ霧は立ち上っているから南北に帯状の霧だ。犀…
自然に湧いてきた「祈り」の思い、もう40年ほど前になる体験がある。 1970年、私の勤務した新設校、大阪市立矢田南中学校は、他府県から赴任してきた若い新任教員が多かった。1学期の終わりごろ、岡山から来た女性が私に言った。 「北アルプスに登ったこと…
2024年、ノーベル文学賞に、韓国人作家ハン・ガンさんが選ばれた。 ハン・ガンさんは、1970年、韓国の光州で生まれた。その当時韓国を支配していたのは軍事独裁政権だった。1980年5月18日、軍事政権に対して韓国民衆は抵抗の闘いに決起した。軍事独裁政権は…
黒部峡谷に「下の黒ビンガ」「上の黒ビンガ」と名付けられている難所がある。「ビンガ」とは何か。それは両岸壁が高くそそり立ち、その間を流れる黒部川は激流となり、深い淵となっているところだ。そこで、両岸が狭くなり、岸壁がそそりたっているところを…
戦後10年、高校のぼくの学級担任は、登山家だった。野村哲也氏、彼は二十代の新進気鋭の登山家で、関西で最も先鋭的な登攀を試みる関西登高会に所属し、前穂高岳の未踏の岩壁登攀や、北海道のペテガリ岳, 冬の縦走を成し遂げていた。数年後、ヒマラヤにもチ…
山折哲雄は、女子大学での講義で、新陳代謝について話をした。 「人間は、排泄物を汚いと感じる。ところが排泄物であるのに、汚いと感じないものがある。それは何か.] [それは涙です。」 学年末、講義を受けた学生に、レポートを提出してもらった。そのなか…
宮沢賢治の願い 2004年に、国際日本文化研究センター所長の山折哲雄が、「涙と日本人」という書を出版した。その記事中に、賢治の詩「雨ニモマケズ」をめぐる疑問が提出されている。それはこういう疑問だ。 「雨ニモマケズ」の詩には、次の一節があり、次の…
種田山頭火は出家し、漂泊の旅に出て、俳句を詠んだ。自由律俳句だ。 まどろめばふるさと夢の葦のはずれ しづけさは死ぬるばかりの水が流れて 焼かれる虫の匂ひかんばし ふくろうはふくろうで わたしはわたしで ねむれない どう しようもない わたしが歩いて…
アラスカを愛し、その地の人になった星野道夫は、「旅をする木」を著わした。 「アラスカの自然を旅していると、たとえ出会わなくとも、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中で、それはなんと贅沢なことだろう。クマの存在が、人間が忘れている生…
ぼくの住む村に「扇町コーラス」という趣味の会があった。そこに、ぼくも巌(イワオ)さんも参加していた。近所に住む建具職の、ガラス工事を専門にする巌さんは、コーラスをこよなく愛していた。ぼくは巌さんを「イワちゃん」と呼んでいた。 十年ほど前、穂…
石垣りんが、「行く」という詩を書いている。老い先の短くなった人生に、響いてくる詩だ。 行く 木が 何年も 何十年も 立ちつづけているということに 驚嘆するまでに 私は生きてきた。 草が その薄く細い葉で 立ちつづけているということに 目を見張るまでに…
第二次世界大戦終結後、ナチスドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルク裁判がドイツで、日本を裁く極東軍事裁判が東京で、それぞれ行われた。 東京裁判について、インドのパール判事は主張した。 「アメリカは、日本に原爆を投下した犯罪性を不問にしている…
1945年8月 あの日のこと 被爆者の詩 とうとう帰ってこなかった 中学一年 徳沢尊子 「お姉さん お姉さん」 待っても 待っても 夜まで待っても 帰らない 次の日も その次の日も 帰ってこない 八月六日の朝 出てゆく時に 元気な声で 「タカ坊 行ってくるよ」 と…
教職にある人たちへ、お尋ねします。 あなたは、児童生徒にヒロシマ・ナガサキを伝えることを授業で行いましたか、行っていますか。 あなたは、児童生徒にヒロシマ・ナガサキを伝えることの意味をどのように認識していますか。 私がかつて大阪で教職にあった…
室生犀星の詩の中に、「ドストエフスキーの肖像」と「永久に」という二編の詩がある。 ☆ ☆ ☆ ドストエフスキーの肖像 深大なる素朴 耐え忍んだ 永い苦しみ 鈍い恐ろしい歩調で迫る君の精神 そのひたいには ペテルブルグの汚れた空気が クモの巣のように かか…
室生犀星(詩人 1889~1962)に、「ロシアを思う」という詩がある。(現代仮名遣いに書き換え) ロシアを思う 「私はよくロシアのことを考えた 冬から春になったころの 『死人の家』にあらわれた シベリアのこと 獄砦(ごくさい)を取り囲む濠(ほり)のなか…
今年も、ヒロシマ・ナガサキの原爆忌が近づいてきた。 あれから何年を経てきたか。 世界は泥沼化、核兵器が出撃にそなえている。 あの日を振り返り、たくさんの原爆体験が詩に歌に文章に表されてきた。 その中の一編の詩。 冴えた眼から 深川宗俊(当時30歳…
世界大戦が終結し、戦争を裁く二つの裁判が行われた。ドイツでの裁判は「ニュールンベルグ裁判」、日本での裁判は「極東軍事裁判」だった。 この裁判史を、中学、高校の歴史教育で教えられているだろうか。 インドのパール判事は東京裁判の中で、「アメリカ…
このごろ、ヒバリの姿が見えない。春野に聞こえたさえずりが消えた。 おおヒバリ 高くまた 軽く何をか歌う 天の恵み 地の栄え そを寿ぎ 歌う 野の真ん中に立って、よく歌った ツバメの姿も見ない。軒先の巣づくりも見られない。安曇野に引っ越しをしてきて、…
<内山節のつづき> スペインとの国境に近いフランスの山村で、半月ばかりマス釣りをしたことがあった。 「こんにちは、ご一緒してもいいでしょうか」 小学校に通い始めたばかりくらいの少年が、弟の手をしっかり握って、ニコニコ笑って現れた。 このフラン…
内山節がこんな体験を書いていた。 「夜道で、一匹のカブトムシを拾った。家に持って帰って、スイカの皮の上に置いた。翌朝、カブトムシはまだスイカの上にいた。スイカには食べた跡が残っていた。よほどお腹がすいていたのだろう。 『家に帰るかい』 ぼくは…
1989年、こんな俳句が詠まれた。 核の冬 天知る 地知る 海ぞ知る 高屋窓秋 「核の冬」は、核爆発による地球の冷却化であり、万物の生命を脅かす悪の暗喩であると。 人類の犯す悪はすでに世界に、自然界に現れている。絶えることのない侵略戦争は、いつ核戦争…
ロシアやウクライナで、俳句を作る人がいるとしたら、日本語の、5・7・5音の短詩という形式はどうするのだろうか。彼らは日本語を知らない。彼らの言語でどうやって俳句を作るのか。 推測するに、こういうことだろうか。 明治時代、自然主義文学が生まれ…
ロシア、ウクライナで、俳句を作る人が増え、句会も開かれているというニュースを読んだのは、ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まるよりも前のことだった。国境を越えて、俳句でつながっていた人たちは、今どうしているだろうか。スポーツや音楽、芸術、…