南相馬の子どもたちが来た



巨大な柱や梁の黒光りする、壮大な伝統和風建築の民宿だった。
万水川を背にどっしり建つ旅館「ごほーでん」、南相馬の子どもたちの5日間の宿舎だ。
ここからはワサビ田も近いし、犀川もすぐそこにある。
引率・付き添いを含めた35人は、一日バスに揺られてやってきた。
予定より早く、午後4時過ぎに到着した。
一行を迎える式で、市長、社会福祉協議会の挨拶につづいて南相馬の引率代表の方の挨拶があった。
「私は専業農家です。20町歩の田を作っています。しかし、もう米をつくることができません。これからどうなるか分かりません。」
福島の米どころ、20町歩といえば、かなりの大規模農家だ。原発事故がなければ、今ごろは稲の育成を見守って、朝晩田を見回る毎日であるだろうに、
突然襲った災害によって、こうして被災地の子どもたちを連れてここにやってくることになった。
「子どもたちの中には、家族を亡くした子もいます。放射能から身を守るために、外で子どもたちは遊ぶことも出来ません。」
わずかな日にちだけれど、安曇野の自然の中で元気に遊んでほしい。


福島のみなさんは、ここ安曇野で何を感じ、何を考えるだろう。
自分たちのふるさととは違って、災害にあわなかった普通の自然と暮らしがここにあり、その安曇野のなかに身を置いて思うことは、故郷の南相馬のことだろう。
歴史のなかで人々は、多くの震災や戦災を乗り越えてきた。
しかし、原子力災害というものは人類の歴史になかった。
原子力災害は、何十年、何百年という気の遠くなるようなスケールで放射能を出し続ける。
山や田畑、家や道路が形をそのまま残しても、人はそこに居続けることが出来ない。
原発近くの無人の街で、信号機が点滅しているのを見た人が、身体に戦慄が走ったと語った。
それは予言ではないか、
滅びの告知を感じた戦慄ではないか。


かつてそこを人が往来し、文化が栄えた。
歌声が響き、にぎやかに祭りが行なわれた
学校の校庭に子どもたちの遊ぶ姿があった。


今も日は昇り、日は沈み、
雨がそぼ降り、鳥が空を飛ぶ。
だが、
そこに人の暮らしは消えている。


1965年、エルサレムを訪れたとき、
エルサレムの街は二分されていて、ヨルダンとイスラエルの間に緩衝地帯としてのゴーストタウンが広がっていた。
こっそり覗いた国境地帯、
はてしなく広がる無数の石造りの家々や石畳の露地に、人も猫も犬もいなかった。
そこに人は街を作り、家を建て、仲良く暮らした、その痕跡は明瞭にそのまま残っていた。
だが、銃弾がその上を飛び交う。
数ヵ月後、中東戦争が起こった。
そしてまた街は消えた。


人間の愚かさ、
ゴーストタウンを生み出す人災。


南相馬の農家の男性、そして子どもたち。
安曇野からまた福島に帰る。
帰る故郷はありや。


安曇野にきて思うだろう。
取りもどしたい故郷を。
子どもたちの故郷を。


今日、子どもたちは、安曇野アルプス公園で遊ぶ。