地震の日も報道を続けた河北新報



大震災に遭遇した一つの地方新聞社が、壊滅的な大打撃を受けたにもかかわらず、その日の3月11日も、なんとしてもこの震災を報道しなければならないと被災地を走りまわり、写真を撮り、紙面を作り、自社の機械では印刷できない中、新潟の地方新聞社の機械を使わせてもらって発行した。それから一日も休まずに被災地に新聞を配ろうと奮闘し続けた記録『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(文芸春秋)を読んだ。


驚くべき使命感であった。新聞社魂とはこういうものかと思った。
「われわれは地域の住民に支えられて百年以上、この地で新聞を出すことができた。その住民が大震災で苦しんでいる。今こそ恩に報いる時だ。いかなる状況になっても新聞を出し続ける。それが使命であり、読者への恩返しだ。」
震災対策会議で社長はそう号令を発した。合言葉は「いまこそ東北のために」だった。
河北新報社は1897年に生まれ、創刊以来114年、宮城県を中心に東北六県を区域にする地域ブロック紙である。戦時中も終戦時も、一日も休まず発刊を続けてきた。1945年7月10日の仙台空襲では社屋の周りが火の海になったが社員が懸命に消火して被災を免れた。
「河北は福島県白河以北を意味し、東北地方を表現している。明治維新以来、東北地方は『白河以北一山百文』と軽視された。一山百文とは『一山で百文の価値しかない荒地ばかり』という侮蔑的な表現だ。これに反発心を抱き、あえて『河北』と題し、『東北振興』と『不羈独立』を社是とした。」


震災の日、自力で新聞を発行することは出来ない状態にあった。
仙台から260キロ離れた新潟市の新潟新報社、そことは「緊急時の新聞発行相互支援協定」を結んでいた。一方の新聞社が紙面制作できないとき、もう一方が代わりに制作を引き受けるという支援関係である。この協定は、2004年の中越地震を経験した新潟日報社の呼びかけで生まれたものだった。
河北は新潟に連絡を取る。新潟からの応答は、「任せてください」。
だが、データを送るインターネットが不通になっていた。それは共同通信社の技術員のおかげで共同通信のネットワークを使わせてもらうことができた。
3・11、夕刊の号外が配られた。


ずたずたになった道路、販売店津波で流され、店員も購読者も亡くなっている。
社員は自分たちでおにぎりをつくり、それを糧に、輸送路を確保し、どこに新聞をとどけたらいいのか自力で調査して、新聞を発行し送り続けた。
いちばん喜ばれたのは避難所だった。
新聞がこんなに待たれ、こんなに喜ばれたことは今までなかったことだった。


河北新報社を支援する動きも大きかった。
他社の新聞社や異業種の会社30社以上から応援が来た。
中国新聞社からは、記者、カメラマン、運転手がセットで仙台に乗り込んできた。
河北新報の取材クルーとして、自由に使ってください。」と、そして電動機付き自転車25台。

河北新報は、この恩に報いるために、今後の災害に備え、他社への援助ができるように心構えをつくっているという。
東日本大震災報道」で、河北新報は2011年度新聞協会賞を受賞した。
この本の最後に、次の文章がある。
「今も、私たちの東北は大震災のただ中にある。
被災地にある新聞社として、河北新聞社が伝えなければならない状況があり続けている。伝えなければならない声、伝えていきたい声がある。
震災発生以来、被災地や避難先を取材し続けている。津波で肉親を失いながらも職場にとどまって被害などを伝えた記者、避難所から出勤して書き続けた記者もいた。
国難とも言われる東日本大震災を軸にした報道、紙面づくりが、東北の再生に向け、私たちができるいちばんの仕事だと考えている。
何が起きたのか、何が起きているのか、記録し、歴史として刻み、新しい時代に継いで行く役割が、新聞にはある。」

この使命感の自覚は、新たな歴史を刻むことになるだろう。