
藤原新也が1995年、こんな文章を書いていた。
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<村を訪れ、寺の墓地に行ってみた。そこで見たのは、一人の大工が息子と二人で塚(墓)を建てているところだった。尋ねてみると、村民の戦没者の墓石が倒壊したままなので、建て替えるのだと言う。私はこの村で、汗をたらして働く若者の姿に初めて接した。なつかしく、得難いものを見たような気分になり、高校を出たばかりぐらいの若者の動く様子に見ほれた。
大工は話してくれた。
「こんな村で仕事があって、悪くはないけど、本当には喜べんのです。こんな仕事を大工にまかせなきゃいけんのかね。」
彼の話は寂しいものだった。村の共同物件を建てたり、壊したりすることは、昔から村の者が寄り合って一緒に力を合わせたものだった。しかし近年、まったくそれが無くなった。過疎化に伴って、村に若者がいなくなったのだ。村の者が寄り合ってする仕事は、やっかいな力仕事が多い。高齢者にとっては荷が重い。それでも老人が力を合わせればできないことではないが、今は社会福祉がよくなって、それが裏目に出て、村人もそれなりに年金をもらっているので、専門の職人に仕事をまかせることになった。そのことについて村人の一人が言った。
「こういった仕事は金で解決するのではなく、無理をしてでも皆が寄り集まってやったほうがいい。村の者のつながりが保てるし、人間関係がうまくいく。しかし、こういうことが絶えてから、人々は疎遠になった。人間関係が以前より冷たくなった。ほら、村の湯でも、互いに顔を合わせて長々としゃべらんでしょうが。先祖の供養物まで大工が建てるというのは、あっちゃならんことです。」
村の縁起が一つ一つ消えていく。都市の人と人との関係が隔たっていくように、村においても同じことが起きている。村という共同体にはしる亀裂が都市化による一つの産物であるとするなら、日々味わう村の静けさは、自然という母胎に囲われたが故の静けさであるとともに、都市化の寒さでもある。村は、谷間に咲くネムの木の間から眺めた、桃源の趣が徐々にはがされ、都市の波打ち際の砂の楼閣のように眺められる。
秋、私はその谷をあとにした。
藤原新也の文章を読んで、今進行しているわが村の高齢化の現状を考える。子どもの声はどこからも聞こえてこない。姿も無い。