動く人たち


 二日前、工房の薪ストーブ設置が完成した。屋根に上っての煙突工事は緊張し、命綱を持ちながらの作業だった。ひとりでよくやれたもんだ。緊張感で疲れ果ててしまった。

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被災地の多くの人たちは、なおも学校の体育館などに毛布を敷いて暮らしている。
秀和さんは、「臭い取りの活性炭の入ったマスクを送るんですよ。」と言った。
「マスコミは報道しませんがね、被災地や避難所にはマスクがいるんです。想像できないでしょう。
臭気がひどいんです。どんな臭いがあるか分かります?」
輪切りにした材木やらチェーンソーで彫った道祖神やら、雑多なものが置かれた秀和さんの家の前、その一角を指差して、
「あそこに集めてあるのは空きペットボトルですよ。洗って消毒して水を入れて送ることができるよう考えているんです。」


地震が起こる前に開かれた安曇野社会福祉協議会の2回目のワークショップで出会った秀和さんのことを思い出して、お昼に電話してみたのだった。
「時間取れませんか、相談したいことがあって。」
「今、タイヤを履き替えているところで、3時までだったらいいですよ。」
聞けば、秀和さんの家まで車で10分ほどだ。昼ごはんを済ませて出かけた。
顔中白いひげもじゃの秀和さんは、タイヤ交換の最中だった。軽トラを換えて、次は乗用車になるところ、タイヤ交換は後回しにして、トラックの荷台に二人もたれて話す。
「ワークショップの3回目に、震災に会った人たちや子どもたちを、安曇野で引き受けて助けられないかなと、話し合ったんです。」
ぼくは、地震の二日後に市の福祉課と社会福祉協議会へ提案してきた「市や個人での避難民受け入れる活動」についても話した。
「3回目のときは、わたしは、仕事が重なって行けなかったんですよ。被災者受け入れは、もうわたしたちやっていますよ。」
秀和さんは早口でしゃべりだした。
秀和さんは、安曇野市日本赤十字奉仕団の委員長であり、NPO法人信州ふるさとづくり応援団理事長でもある。彼なら、安曇野で被災者、避難者を受け入れる活動に無関心でいられるはずがないとひらめいて訪問したら、すでに彼は活動を起していたのだった。
「もう何家族も来ていますよ。仲間の空き家などに住んでいますよ。」
避難民には仕事も必要だ。そこまでお世話しないとだめだ。そうして働き場所まで見つけている。
「市は、市営住宅の空き家に受け入れるということですが、対応がもうひとつでねえ。」
とぼくが言うと、
「行政はそうですよ。だから自分たちで動くしかないんです。」
秀和さんの動きは早かった。日赤関係のつながりを使い、ふるさとづくり・地域づくりの運動を活かし、多方面のつながりのネットワークを駆使して、岩手、宮城、福島と連絡を取り、ふるさとづくり応援団の30人の仲間と、救援に乗り出していたのだった。
「こういうことばかりやっているから、水道屋のほうは片手間みたいになってね。」
本業は水道工事だが、それよりもいろんな市民運動のほうが忙しい。
「それでもつながりをたくさん持っているのはいいですよ。仕事も物もやってくるんです。」
秀さんの洋館から薪の燃える匂いがしてきた。
「薪ストーブの薪も、持ってきてくれるでね。つながりをつくるべきですよ。」
彼もぼくと同様、薪ストーブは自分で設置したという。
「確かに、被災地の孤児たちがたくさん出ていると思うね。孤児という言葉は使いたくないけれどね。」
秀和さんは、子どもたちのことに顔が曇った。
孤児というか遺児というか、その子らを公の施設でみていくことになるだろうが、その施設そのものも破壊され、あるいは不足しているとしたら、他県が自分のこととして受け入れていかねばならないことではないかと話す。
話は、自分たちの年齢で里親になることのためらい、将来に向けて責任が持てるか。もし受け入れるとしたら、学校単位の集団が望ましい。東北の文化で育った子どもはそのつながりのなかで育つ、子どものつながりを維持できるようにできないか。子どもを亡くした親たち、親を亡くした子どもたち、この両者のつながりも生まれないか。
二人の話は手探りの模索だった。
「やっぱり、受け入れるのは家族だねえ。」
と秀さんは言った。
「でも何ができるか、あせらないで考えていくことだねえ。」
長期戦だから、受け入れの心を用意していくことだと、こちらの心の余裕も必要だと。
ぼくとはあまり年齢的に変わらない。秀和さんのエネルギーパワーには圧倒されるばかりだった。