日本人はチェルノブイリから何を学んだのか


ベラルーシの病院でチェルノブイリ原発における事故放射能障害への医療活動を行なっていた菅谷医師(現・松本市長)は、
日記の1999年の10月1日にこんなことを書いている。


 「東海村のウラン燃料加工施設で臨界事故が発生したとの情報が、日本の知人から知らされた。
『今の日本でも核災害が発生することは、十分あり得る恐怖である』と、、チェルノブイリ基金のニューズレターにも書いたばかりだが、
日本人の多くは、なかなか自身の問題として捉えることができないと感じていた。
 一時帰国のたびに、あちこちで講演の依頼を受けるが、この二年間は、
『本当に日本人はノウ天気です! 今なお、そしてこれから先何年続くかわからないチェルノブイリの現状から、もっと多くの教訓を学ばなければいけません』
と繰り返してきた。
核災害は、自然災害とは大きく異なる。なぜなら、汚染された土地には人間は住めない。
場合によっては数世代以上にわたって!
 残念だが、平和すぎる今の日本人は、実際に事故でも体験しないと理解できないのだろう、
と感じていたが、現実に起こってしまった。
遠い異国にいると、日本人が次第に賢さを失っていく様子を寂しく感じることが多い。
今回の核事故が、われわれ日本人特有の『反復性悪性健忘症』のなかに迷い込まなければよいが、と危惧する。」


チェルノブイリ事故から13年目、日本人は「チェルノブイリは遅れた技術だ。日本の優れた技術では大きな原発事故は起こらない。」とたかをくくり、電気を使いまくっていた。菅谷の警告も、聞き流された。
同じく2000年4月23日の日記。


 「昨日と今日、恒例の手術後の子どもの家庭訪問検診を行なった。今回は6家族を訪ねた。
みな手術当時と比べ、驚くほど成長し、とくに問題もなく学校生活を送っていることを知ってひと安心した。
しかし、どの女の子も思春期にさしかかり、首の手術創を気にし始めている。誰を責めたらいいのか‥‥。
彼女たちの苦悩を、時の流れが少しでもやわらげてくれることを今は祈るだけである。
 今回の訪問で驚いたのは、半数の子が将来、医療関係の道に進みたいと希望していたことだ。自らの体験を生かし、病者の気持ちを深く汲み取れる医療従事者になってくれるものと信じてやまない。甲状腺ガンのハンディにも負けず、目的を持ち、未来に向かって歩み始めた彼女たちに精一杯の拍手を送りたい。
 ターニャの家族は、チェルノブイリ原発から30キロメートル離れた村から、現在の地区に強制移住させられた。事故当時、ターニャは2歳の誕生日を迎えようとしていた。北国の長い冬が終わり、待ちわびていた春。彼女は来る日も来る日も、土にまみれて遊んていたことだろう。それが甲状腺ガンという病気を引き起こすとは、誰に予想できたであろうか。
 先日、家族で以前住んでいた村まで墓参りに行くと、おばあちゃんは『ここに戻りたい』と、はらはら涙を流したという。ターニャの父親は、『おれたちに、都会は要らない』と、怖い顔で言った。天と地の豊かな恵みのなかで生きてきた人々には、今の移住先の生活は耐えられないのだろう。検診を終えて家の外に出ると、父親は私を少し離れたところに連れて行き、真剣な表情で質問した。『将来、娘の子どもに事故の影響はでないだろうか』と。
私は即座に『ニエット(ノー)』と言った。今はそう答えるのが最善と思っているからだ。その瞬間、父親はほっとしたように日焼けした顔に白い歯を見せて、私の手を固く握りしめた。」


豊かな穀倉地帯の広がる国だった。福島のように。
大人は野に働き、子どもは野で遊んだ。
そしてフクシマ。
朝日ジャーナル緊急増刊号  <特集・原発と人間>」(2011年6月5日)のなかに、菅谷がこう書いている。


チェルノブイリから20年経った2006年、現地の産科病院医師らから、
『ここ10年、早産や未熟児の出産件数が非常に増えていることに懸念を抱いている』
という情報がもたらされたのだ。
医師が言うには、その出産年齢の女性たちは、チェルノブイリ事故のときに子どもであったか、事故直後に生まれた人たちばかりだという。
細胞学的にもいちばん影響を受けやすい年齢のときに被曝している年代で、その母親たちが被曝の悪影響を受けていると考えるのは当然の帰結であると言うのだ。
四半世紀の時を経てなお、健康障害は世代をまたいで残り続けている。」


チェルノブイリもフクシマも、国策によって災害が起きてしまった。
国は、チェルノブイリから何を学び、起こるであろう事故にどのように備え、起こってしまった事故に対処したのか。
福島原発の事故が起こっても、たかをくくっていたのではないか。
菅谷の痛恨の指摘である。