宮沢賢治の願い

 

 

   宮沢賢治の願い

 

 2004年に、国際日本文化研究センター所長の山折哲雄が、「涙と日本人」という書を出版した。その記事中に、賢治の詩「雨ニモマケズ」をめぐる疑問が提出されている。それはこういう疑問だ。

雨ニモマケズ」の詩には、次の一節があり、次のように表現されている。

   ‥‥

           ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ

   サムサノナツハ オロオロアルキ

   ミンナニ デクノボウトヨバレ

   ‥‥ 

    ところが、「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」は、この詩が書かれていた賢治の手帳を見ると、「ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ」となっている。

    淀川中学校教員時代の1962年、私のクラス生徒だった貞子さんは、成人して小学校教員になり、十数年前、夫君と岩手県の賢治の郷をたずねて、そこで賢治の手帳の復刻版を購入し、私に贈ってくれた。賢治の手帳には、いくつもの落書きのような記載があり、その中に「雨ニモマケズ」が書かれていた。それを見ると、確かに「ヒドリノトキハ」となっている。

    山折哲雄はこの賢治の手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」について考えた。

「この手帳が公表された時、『ヒドリ』では意味が通じないといって、『ヒデリ』に訂正され、それが一般に流布してしまった。以来、出版物は『ヒデリ』になり、それが定説になってしまった。」

    賢治記念会理事長をつとめた照井謹二郎氏は語った。

「手帳の原文は、ヒドリである。花巻の南部では、昭和の初期ごろまで小作人が日雇い仕事でもらう金を、ヒドリ、あるいは、ヒデマドリ、と言った。賢治は、日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい暮らしを想って、この詩を詠んだのではないか。」

 山折哲雄は、さらにもう一つの解釈を思い出した。それは、賢治研究家。小倉豊文の説だった。

    「ヒドリは、ヒデリ(日照り)ではなく、『サムサノナツハ オロオロアルキ』に対照させる、ヒトリではないか。昔から岩手では、『日照り、旱魃のときには凶作はないという俗説が信じられていた。そうすると、日照りのときに涙を流すことはないのではないか。『ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ』を解釈すると、ミンナニ デクノボウと呼ばれたいと思っているヒトリの賢治の涙が見えてくる。

    この詩は、昭和6年の9月から12月にかけて、最後の病床にあって書いたものではないか。ヒドリの解釈はますます難しくなってくる。あえて一つの解釈を選ぶとなると、私はやはり一人で涙を流している賢治の姿の方に魅かれていく。」

    「雨ニモマケズ」の詩は、昭和6年の9月から12月にかけての最後の病床の中で、えんぴつで記したものとされている。貞子さんから贈ってもらった賢治の手帖の文字は、鉛筆の走り書きだった。

 

    雨ニモ負ケズ

    風ニモマケズ

    雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ

    丈夫ナカラダヲ モチ

    欲ハナク

    決シテ瞋ラズ

    イツモ静カニワラッテヰル

     ‥‥

               ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ

       サムサノナツハ オロオロアルキ

       ミンナニ デクノボウトヨバレ

       ホメラレモセズ

       クニモサレズ

               サウイウモノニ  

    ワタシハナリタイ     ‥‥‥