被災地へ行ってきた大ちゃんの報告

 これは3年前、我が家の工房の棟上げをしてくれた大チャン、シンちゃん、タカオさん。



飛騨から安曇野に移住してきて、そこですてきな娘さんに出会い結婚した大工の大介君、我が家の工房の棟上げをやってくれたその人も震災ボランティアに行ってきた。
彼のボランティア報告が、シンちゃんの立ち上げたホームページ(http://supportnet.naganoblog.jp/)に掲載され、読んだ。
大工の大ちゃんもシンちゃんも被災地で活躍している。若い彼らの心意気が頼もしく、嬉しい。

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5日 こどもの日 <湊中学 炊き出し>
2日目、ここは港から700メートルくらいの所にあり、被害もかなり大きかった場所にある避難所です。
ここはまだ電気も水道もガスも来ていません。
この辺りも含め女川街道より海側は地盤が1.5メートルも下がったそうで、満ち潮になると冠水してしまいます。
震災当初ここの体育館の中にはガラスを突き破って車が入っていたそうです。
多くの学校が避難所になっているため、授業の再開も仮設住宅との兼ね合いでまだ見通しが立ってないようです。
この辺りでは全壊している家も多く、自衛隊がダンプで残骸を運び出し、電気屋さん、電話屋さん、いろんな団体のボランティアさんが瓦礫・ヘドロ出しとがんばっていました。
この日の昼、「牡鹿半島の漁具の回収ボランティアが午後で半減するから誰か行かないか?」と言われ、ご飯をかき込んで同行することに。
祭りをやってる所があるので途中寄っていくことになりました。
渡波(わたのは)という地区の神社(通称大宮様)で祭りが出来る事になったのです。
この辺りは海から300メートルくらい、神社から海に向かって建物がなくなっていて、波の通って来た跡が分かりました。住めるような家は無い状態です。
この神社、周りよりは少し高い所にあり、松の御神木が周りにあります。この神社に200人の人が逃れて来たのですが、波は床スレスレの所まで迫って来たそうです。でも、入り口の前で渦を巻いてそれ以上にはならなかったそうです。
事あるごとに神社に参る漁師町だからですね。以前にも津波があった時、御神木が守ってくれたそうです。
震災当初、「どこから手を着けていいのか?」という状態で、住民の方達も怖くて帰れなかったのようですが、ボランティア達が、まずは神社からと片付け、キレイにして行くことで、徐々に町の人も戻って来るようになりました。
そんな時、宮司さんが「5月5日、例年なら祭りがある、出来れば復活させたい」と言ったことで、祭りを足掛かりに復興して行こうという思いで、みんなが一丸となったのです。
発起人の人が言ってました。
「祭りはイベントでもなく…何かしたい人としてほしい人の『間を吊る』ことだと思う。魚を釣る人は魚を奉納したり、農家は米を奉納したり、持ち寄るもの。震災も似ていると思う。大工が出来る人は大工仕事をし、体力がある人は泥だしをして。中心になった誰かがいるわけではなく、みんなで行なったのが良かった。
宮司さんは、今回の祭りの形はそのまま残して、今後神社で物資を配ったりプレハブの集会場を建てたりしたいそう。」と。
『間を吊る』、いい言葉ですね。
会場では 唐揚げ、たいやき、おしるこ、美容室、カフェ、ライブペイント、そして廃材で子供達が遊べる遊具がいろいろ作られていました。
こどもの日だったのでこども達にリフレッシュしてもらいたいってのもあったようです。約2000人が集まり楽しんだようです。

そして 牡鹿半島に‥‥

石巻市はいち早くボランティアが集まれる状態になり活動が出来だいぶ片付いてきてますが、郊外にいくごとに復興が遅れています。
牡鹿半島は一月遅れ、家など崩れた物は手付かず状態。小さな漁村が幾つも点在していて、地形などにより被害もさまざまでした。
残っている船は1割くらい、残った船で漁に出ようにも網や残材などが海に大量に残っていて、スクリューに絡まるため出られないで途方に暮れてました。
ゴールデンウィーク、ボランティアが入り、ブイなど漁具の回収をしたことで、漁師さん達も、「見ず知らずの人ががんばってるのに、黙ってられない」と火が点き、漁具回収・港の片付けをしてました。
結局この日は下水の泥出し(潮が満ちて来ると水が溢れてくるので)をして終わりました。

6日 <牡鹿半島・狐崎>

狐崎で畳下の板貼りに行きました。ここは入り江が深いため被害が少なかったようです。
僕が行った家は港から3件目(50メートル位)の所で、1.5メートルの高さまで水は来てましたが、家自体にはそんなに支障のない状態でした。
そこには76歳のおじいちゃんが住んでいるのですが、東京で入院しているおばあちゃんがもうすぐ戻って来るので、一階に一室でも作りたいということでした。
ボランティアさんが入って板を剥がし、床下の泥出しまでしてあったのですが 材料もない。
合板を頼んであるけど不足していて入荷未定のため、剥がした材料の使える部分を選り分けて使うことに、4室ある部屋の半分、4.5畳と8畳の畳下を貼り、壊れたシンクに台を作りました。
「材料があれば全部やってあげれたのになあ」と思い、その日は終わりました。
すると、なんと 夜9時過ぎ、牡鹿半島担当の人から「コンパネが入るゾ」と連絡がありました!
僕は炊き出しの人達と来たので足が無いため、移動手段が無かったのですが、牡鹿半島でも炊き出しをすることが決まり、便乗出来ることになったので、その問題も解決! もう一度おじいちゃんの所に行けることになりました。

7日 <牡鹿半島・狐崎>

この日、埼玉の衆議院議員の武正さんがコンパネ200枚、大量の食料などを持って来てくれました。
そのコンパネを持っておじいちゃんの家へ。
まだまだ来ないと思っていたコンパネと、もう来ないと思っていた僕が来て おじいちゃんはビックリ!
横浜から来たというボランティアさんと床貼り、おじいちゃんと弟さんも前日貼った床の剥がしをしてくれ、8畳と6畳そして前日の2部屋も貼り直しました。
新しい材料でキレイになり、明るくなりました。
サッシのガラスも割れっぱなしだったので、剥がした板で塞いで来ました。
畳とガラスが入れば部屋は使える状態になりました。
前日、おじぃちゃんが、「1月には、ばあちゃんが入院して、今度は津波で、ついてない」と言っていたのですが、
「まだだと思っていたコンパネも入ったし、足の都合で来れないと思っていた僕も来ることができたし、ツキが上がって来たんじゃない!」と言うと
「んだ!んだ!」と少し涙してくれてました。
この半島は、カキやホタテ、アナゴが名産で、いたる所にほたての貝殻(養殖用)があるんですが、手伝いに来てくれた弟さん(73歳)は、
「俺ら、今まで自分のことしか考えてこなかった、それがいけなかったんだなあ。あんたらみたいに他人のためにやってるの見て分かった。俺らも変わらないとなあ。ここは、カキや海水浴でにぎわってたんやあ。キレイになったらまた来てくれなあ」って。
カキは種を付けてから3年かかるそうですが、「その頃またおいで」と言ってくれました。
漁師さんは自分の仕事に誇りをもっているというのを、会話の随所に感じました。
牡鹿半島は小さな山みたいになってるんですが、海岸以外では木々も芽吹き、牡鹿というくらいで鹿にも出会えたりします。
すごくキレイな所で、湾になっていて、普段は穏やかな海で、瓦礫がなかったらキレイなんだろうなと、またゆっくり行きたいなあと思いました。
5時過ぎ、炊き出し班に合流。 
今までほとんどなかった炊き出しに喜ばれたようです。
11時、長野への帰路に着きました。