辺見庸・『ペスト』・大震災

辺見 庸が1時間ほど語った。(NHK)
彼は、宮城県石巻市出身だった。
「わたしは畏れかしこまり、あふれでる涙ごしにテレビ画面のなか、母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。
生まれ故郷が無残にいためつけられていた。」


辺見はブログにもつづっていた。
「若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。
なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。
カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。
わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。
あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。
歴史がそれらをおしえている。
非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。
大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。
わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。」


辺見は、福島の原発被災地半径30キロ内の地域に、避難せずにそこに踏みとどまり診療活動をしている医師と、「ペスト」の主人公、医師・リゥーを重ね合わせている。
オランの町に、ペストが流行り、次々と人が感染して死んでいった。
医師・リゥーは、町が最後にペストを根絶するまで、診療活動を誠実にたゆまずつづける。
新聞記者のランベールは、街が封鎖されたために町から脱出することが出来なくなった。
しかし、脱出するための工作を繰り返していた彼は次第に変わっていく。
現に見たとおりのものを見てしまった今では、脱出はできない。
もし自分が脱出してここを去っていったら、きっと恥ずかしい気がするだろう。外に残してきた恋人を純粋に愛することもできなくなるだろう、と感じる。
リゥーは、自分の幸福を選ぶのは、何も恥ずかしいことではないというが、ランベールは答える。
「自分ひとりが幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです。」
人々を見殺しにした幸福は、もはや幸福ではありえないと。
ランベールは、そこからペストとの闘いに参加していく。


「被災地、再起への記録」(NHK)を観た。
宮城県歌津半島の小さな漁村も津波に飲み込まれた。
高台に避難した村人たちに、救援の手は伸びなかった。漁村への道路はとざされ、物資も来ない。
村人たちは生きのびるために、廃材で避難所をつくり、がれきの中から浴槽を見つけてきて風呂をこしらえ、町への道路を開き、
つぎつぎと自力で手を打っていく。
パソコンで発信した村の状況が全国に伝わり、
救援ボランティアが難路を越えて入ってきた。
建設資材もボランティアのトラックでとどく。
こうして村人たちは仮設の避難住宅まで建てていった。
行政の手よりも早く、住民と支援者の自立した個の意志と愛の集積によって。
その村から他の地域への避難者は一人も出ず、昔からのつながりのなかで、自分たちの村を再建していこうとしている。


たくさんの人間ドラマが、多くのことを語り続けてくれている。