実現するかどうか分からないけれど、やってみる

 碌山美術館



さて、どうしていったらいいだろう、といろんな人に会って相談から始めた。
まずは農家の人の意見を聞いてみよう。
秀武さんにウォーキングで会ったので聞いてみた。
「アイデアとしてはいいが、どう進めるかだね。彰久さんは専業農家だから、相談してみては。」
彰久さんは専業農家で、耕作のできない人の農地も引きうけて種まきから収穫までやっている。
彰久さんに何度も電話してみたが、なかなかつながらない。何度目かでやっとつながったら、宮の祭り準備で、神社にいると言う。
すぐさま村社へ走り、高齢者の氏子たちの中にまじって、だんじりを出していた彰久さんに会った。
ぼくは手書きで図示したのを見せ、
「要するに、減反をやめて、すべての休耕田、耕作放棄地などで米や野菜をつくり、被災地に送ってその人々の食糧をまかない、復興を支えます。
農産物を直接被災地へ送るわけですね。もう一つ、都会などにも供給して被災地外の人たちに買ってもらい、その金を被災地に送る、これは外から被災地へという矢印です。
次はその逆、被災地から外への矢印です。
土地も家も失った、被災地では展望のもてない人たちを、他の農家や農業団体で受け入れて、仕事してもらうのです。
住宅は、受け入れ側で用意する、農家・農業団体や、行政が用意する。
けれど、高齢化していたり働き手が足りなかったりする農家も多いから、都会の人たちがボランティアで援農する。そういうことができないかと。」


図に描いた仕組みを見せて、話していくと彰久さんの飲み込みは早かった。
「わかる、わかる。だが減反政策を進めてきた農協がどう判断するかだね。まいったなあ、たいへんな仕事だよ。なんで、オレだあ?」
「いやあ、こういう壮大なことをやれるのは彰久さんだと思うからよ。」
現にソバの栽培ではスペインにも何度も出かけている。
「農政をひっくり返すのは難しいよ。」
「上に期待してもなかなかだから、下からやれる人から始めていくことだと思いますよ。」
安曇野からの発信だね。うーん、考えてみるよ。」
安曇野から光を発する、NHKの朝のドラマ、お日様。今は避難所は限界に来ていますよ。有機農家の自殺者も出ています。」
「うーん。」
彰久さんは、白髪頭を抱えている。
「実現が可能かどうか、分からないですよ。」
「いや、実現するしないにかかわらず、考えてみること、やってみることが大切なことだと思うよ。」
「そうそう、結果がどうなるかわからないけれど、日本の大きな転換点だと思うし、それをここから実行していけばね。」


全国の農地は、1961年に609万ヘクタールに達したが、その後、260万ヘクタールもの農地が耕作放棄や宅地などへの転用によって消滅し、現在、農地は459万3,000ヘクタール。そしてコメの減反政策による減反面積は今では100万ヘクタールと水田全体の4割超に達している。


農林水産省は、東日本大震災に伴う津波で冠水や流失などの被害を受けた農地が、太平洋岸の6県で計2万4千ヘクタールに上ると推計した。
被災地の農地は、塩害によって元に戻すことができるようになるには、今後どれだけの時間がかかるか分からない。
津波が来なかった上流部でも、自分の田に水を入れると下流津波被災地の水が引かなくなるために、稲作ができない地域もある。


ニュースが伝えていた。
宮城県山元町のイチゴ農家は7割が全滅。農家が集まって意見を交換した。
復興にかけよう、この仙台イチゴを復活させてふるさとを守ろうと言う若者たちと、これだけの被害ではもう元に戻すことはできない、自分は農業を辞めようと思うと発言する若者たちがいた。
ここまで育ってきた若い農家の担い手たちにも、深刻な傷が生まれている。


彰久さんと会った後、有機に徹する若い農業者の孝夫さんとも、農家民宿『地球宿』の望さんとも相談した。
孝夫さんは、すでに仙台から二人の姉弟の若者を受け入れていた。望さんは、東京からの准避難者を受け入れている。
「貧農のすすめ」を書こうかと、冗談を言う孝夫さんのところには、いろんな若者がやってくる。
「この前、『信濃むつみ高校』の生徒たちがやってきて、休耕田で作物をつくり、被災地へ送ると言っていましたよ。」


ことを進めるには誰と会えばいいか、孝夫さんの提言を受けて、今日は次のキーパーソンへの動きを始めねばならない。