菅谷医師の生き方、チェルノブイリとフクシマから未来を

松本市の菅谷市長は、元信州大学の医師であった。チェルノブイリ原子力発電所が1986年4月26日に事故を起こしてから10年後、菅谷は信大助教授の職を退いてベラルーシに渡った。
それから5年半、菅谷医師は、ベラルーシ共和国に滞在して、放射能がもたらした甲状腺ガンから子どもたちを救う医療活動に従事した。
一度しかない人生、自分はいかに生きるか、
その命題を抱えていた菅谷は、40代半ばを過ぎてから遭遇したチェルノブイリ原発事故によってその結論を得ることになった。
チェルノブイリ原発の存在するウクライナ共和国の北隣にベラルーシはある。
ベラルーシは、国土の大半を放射能の汚染に襲われた。


ベラルーシを訪れたときのことを菅谷は書いている。
「爆発炉より放出された大量の放射性物質。この見えない、臭わない、味もしない恐るべき放射能によるさまざまな影響は、これから先、際限もなく続くだろう。
高度の汚染に見まわれた地域に今住んでいる人々、いや、住まざるを得ない人々、とりわけ大人社会の身勝手さと不条理によって、先々に思いもかけない悲しみや苦しみを背負わされた多くの子どもたちは、これからどんな一生を送っていくのだろうか。
被災地に生きる幼き命を、このまま放っておいてよいわけはない。
何かをしたい、何かをしなければというやむにやまない衝動にかられるのは、人の子の親であれば、誰もが感じるごく当たり前の心情ではないだろうか。
われわれは同じ地球に生を受け、自分の意志とは関係なく、ただ異なった国という環境のなかでそれぞれ生活しているだけではないか。
広大な無辺の宇宙から見れば、地球も数ある惑星のなかの一つに過ぎない。
それぞれが自分のできる範囲で、何らかの行動を起こしてもいいではないか。
これまでのただ忙しく無機的に反復する生き方を軌道修正するために、自分はいったい何をいかになすことによって、多少なりとも満たされた生に浸ることができるのか。
今日に至るまで、日本という異常なほど物質的に恵まれた環境のなかで、数多くのことを学ばせてもらった。
それを生かすのが自分にとって最良の方策であろう。」


1991年、ベラルーシに渡った菅谷は、10歳から15歳までの子どもを対象にして、まず甲状腺異常の実態調査を計画して実施した。
内陸地のベラルーシでは、海草などに含まれるヨードが不足しがちになる。そこで、甲状腺は、ヨードを摂取しようとして、放射性ヨードを取り込もうとするのだ。
放射能による甲状腺障害は、被曝後10年以上経ってから増加する傾向にあるが、チェルノブイリ事故では、子どもたちの甲状腺腫瘍は、異常に早いテンポで現れてきていた。


「残念で悲しいのは、事故発生の事実がモスクワの中央政府から住民に知らされたのは5月2日以降だったことだ。事故からすでに1週間経っていた。
なぜ爆発直後に、とりわけ子どもたちに、できるだけ多量のヨードを摂取せよとの緊急指導がなされなかったのか。悔やまれてならない。」


そして精密検査が必要と思われる学童を選別し、菅谷は「日本チェルノブイリ連帯基金」の援助を受けて、92年に10人、93年に9人の学童を日本に招き、信大病院で精密検査を行なった。
確実に甲状腺異常は広がっている。
今行動を起こさなければ、今タイミングを逃せば、一生後悔する、そう思った菅谷は、1995年12月信大を退職して、翌年海を渡った。
それから5年半、現地の医師と医療活動に従事する。条件が乏しく、遅れている医療現場で、甲状腺ガンの子どもたちに対する手術は痛々しかった。
退院してもすぐに再発する子が多かった。


ミンスクから遠く離れた高汚染地帯から入院してきた子どもたちの親は、愛児とのつかの間の面会が終わると、また何時間も列車に揺られて自分の家に帰っていく。
夜行列車の車窓に果てしなく広がる暗闇を見つめ、彼らはいったい何を考えているのだろうか。
何度悔やんでも悔やみきれないあの事故当時のことが、今もなお脳裏から消え去らないにちがいない。

あのとき、外に出さなければ。
あのとき、キノコを食べさせなければ。
あのとき、森に連れていかなければ。

とにかく、自分を責めさいなむことばかりではないだろうか。それはいつしか悲しみや悔しさの涙となり、とめどなく彼らの頬を濡らし続けることであろう。いまさらいくら自分を責めたところでどうにもならないと、わかりすぎるぐらいわかっていても、我が子への不憫さはつのるばかりであろう。
毎朝手術室に出かけるとき、そして午後、手術が終わって病棟にもどり、廊下を歩いているとき、子どもたちがにこやかに親しみをこめて挨拶してくれる。
昨日、手術台で涙を流した子も、
夕べ、面会に来てくれた母の胸に顔を埋めていた子も、
そして、明日手術を受ける子も、
子どもたちは皆それぞれに、自分の小さな小さな肩に、苦しみや悲しみをいっぱい背負いながら、それでも健気に生きているのである。」


福島原発事故の今後を思う。
根本から問い直し、根本から文明をありかたを変えていかねばならないと思う。