「誘惑や脅しに屈した諦めと妥協の結果がたとえば戦争であり、原発事故ではなかったのか。
先の戦争の後、『文学者の戦争責任』が取りざたされた時期があった。ならば『文学者の原発責任』だって発生しよう。
安全神話に加担した責任。スルーした責任。」
と斎藤美奈子が文芸時評で書いていた。
安全神話に加担した責任。見逃して傍観してきた責任。
あの戦争のとき、戦争遂行に加担し、賛美した文学者の責任を戦後追及する動きがあった。
「愚かだった自分」を詩や文学に吐露した文学者がいた。
筆を折った人もいた。
あの時と同じ、その責任が今問われているのではないか。
文学者の「原発」責任回避だけではない、
学者はどうだったか。
政治家は、官僚は、ジャーナリストは、企業家は。
国民もまた「原発」の根源的な意味を問うことをしてこなかったのではないか。
この国を維持するためにはしかたがない、
今の暮らしを保持するためには必要なことだ、
大規模なエネルギーを得るためにはこれしかない、
経済発展、高度の文明社会のためには必要だ、
地球温暖化防止には欠かせない、
そして、
みんなが賛成しているのだからしかたがない、
大きな流れなんだから竿をさすわけにはいかない、
みんな黙認しているのだからあきらめる、
それが正しいとしているのだから間違いはあるまい、
えらい人が決めたことだから、大丈夫なんだろう、
政治家も学者も認めていることだ、信じるよ、と。
それは他にも共通する。
みんな一斉に、同じように、パターン化した思考、生活スタイルで、
流されていく。
これまでは、「チェルノブイリ原発」の被災者の悲哀を受け止めようとしてきた「安全な日本国の住民」だった。
いま、共に人間の歴史を新たに軌道修正する同志として、「チェルノブイリ原発」の被害者から学びたい。
「原子力」開発のもつ根源的な悪を、
人間の平和な暮らしとは何かと、共に考えたい。
これでいいのですか、この暮らし。
この考え方でいいのですか。