新庁舎建設より被災地救援を



大震災の後、直接被災しなかった人も呆然とし、被災地の人たちは途方に暮れて気力も失せがちであったそのどん底から這い上がり立ち上がりはじめて10ヶ月、そこには三つの助力を必要とした。
一つは自助、
生きるために自分の出来ることは何か、可能な限り自分の力を搾り出す。
二つ目は共助、
被災者同士で助け合い、力を出し合って生きのびる。そしてボランティアが差しのべる助けを受ける。
三つ目は公助、
すなわち国からの援助。
この公助が遅れている。崩壊した住民の生活、壊滅状態の地域産業、消滅した社会システム、これらに必要な巨額の資金が決定的に足りない。被災地の県も市町村も、自由に使える復興資金がなくて困っている。そして政府は政府で、予算不足に頭を悩ましている。国の債務が膨大になり、世界の金融経済の危機状況からすれば日本もこれからきわめて危ない。



「この期に及んで」とは言わせない。
状況のどんづまりなんてない。
80億の安曇野新本庁舎を建てるという計画はもうストップできない段階に来ているという既成事実がある。それにもかかわらず、ぼくはつぶやく。
「この期に及んでまだ反対するか」とは言わせない。
「この期に及んでいようが主張する」。


どうぞ、この資金を被災地に回してください。私たちの市では、使わなくてもいけるのです。
80億円かけて新しい安曇野市役所の本庁舎を建てるのだと、行政トップの人たちは突き進んできましたが、この80億円をどうか被災地に回してください。
合併特例債を使わなければ損だ」「合併特例債と復興資金は別物だ。この際これを使うべきだ」という意見が、市議会にも行政にもあります。3・11以後も、それに依拠して計画は進められてきました。
この意見にはエゴイズムを感じます。
被災地への思いが消えています。
国を一つの家族にたとえます。家族の一員が危機的状態にあるとき、「それはそれ」として切り離し、自分のことだけ考えることはできません。家族みんなは危機的な一人を助けるために自分のもてる力を投入するでしょう。
この国難のときに、「東北地方の問題は東北の問題、われわれの権利はわれわれの権利、取れるものは取れ、国から借りれるものは借りよ」、そのように聞こえてきます。
5町村が合併して6年。安曇野市はそれまでの建物を使って政治を行なってきました。不便もあっただろうし、効率の悪い点もあっただろうけれど、それでもやれてきたのです。本庁舎を建てなければやれないことはなかったのです。りっぱな議場もあるのです。市庁舎の現建物の中には、空室もたくさんあります。
工夫すれば、いくらでも既設の建物・施設を活用して、今までよりも能率よく、市民に密着した行政が生み出せるでしょう。
新しい庁舎をつくるということがいつのまにやら既成の事実のように念頭にあるから、既存のものを工夫して活用するアイデアが乏しくなるのです。
新しいものは建てない、そこに立脚したとき、こんこんとアイデアは湧いてきます。
新しい本庁舎建設にかける資金も、国の資金と市の資金、もとをただせば民からの税金です。
多くの額が負債になります。
借金漬けになって破綻する自治体や国にならないように、市民が監視し、方向をたださねばなりません。
今いちばん苦しんでいる被災地の自治体や住民たちを救済するために資金を優先することこそが政治モラルです。そのことに何の躊躇もありません。
喜んで市民は、この考え方に賛成するでしょう。


エゴということでは、沖縄に基地負担を押し付けてきたのも国や他県住民のエゴだった。
そして国政は党エゴをむきだしにし、党内には派閥や人脈のエゴがある。
地方政治の内部矛盾にも、隠れたエゴがごろごろ存在し、行政をゆがめている。


2500年前、孔子が説いた政治道徳は、仁だった。すなわち思いやり。この根底には、万人の平等思想がある。
すべての人の尊厳を守ろうとする思想とモラルが政治に存在しなければならないと提唱したのだった。これは、きわめて現代に生きる思想ではないか。