敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <3>

<黒豆を収穫した>

 職員会議の決定を聞いた6年松組の子どもたちは、討論を始めた。クラス自治会は活発に動きだしている。白鳥邦夫先生はこう書いている。
「私には伝達・提案・発言の義務や自由はあるが、議決権はなく、指揮権発動も自分で封じている。私は『民主主義』には反対しながらも、クラス自治会には全力を注いだ。あとは作文教育と、日本国憲法の、特に第九条の戦争放棄の平和主義を繰り返し教え込むことである。これは文部省からも校長からも強く奨励されていた。自分では『ふたたび銃を執る』ことを密かに誓っていながらである。」
 白鳥先生のなかで、矛盾する「戦争と平和」の両極が並存していた。しかしクラス自治会を尊重する白鳥先生の実践は、民主教育の先進的な実践の姿だった。
 クラス自治会では毎回パッチン禁止案が出る。しかし毎回否決される。根負けしてしまった白鳥先生に代わって、保夫が執拗に毎回提案し、否定論者と理論を鍛え合っていった。
 職員会議でまた白鳥学級が話題となる。戸田先生が発言して白鳥先生と松組を弁護した。
 「反対論の内容に進歩がみられるようです。すでに十数時間は討論していますからねえ。彼は何か大きな実験をしているのかもしれないから、しばらく大目にみてやってくださるといいでしょう」
 六月、クラス自治会で明が発言。
 「おれ、社会委員会の委員をやめさせてもらいたいんだ」
 明は、いわゆる児童会の社会委員会委員長である。芳江は副委員長だった。芳江が発言。
 「社会委員会はパッチン禁止をあつかっているところですが、自分の組がやめないので、明さんは委員長として困っているのです。私も一緒に辞任したいと思います」
 みんなは考えた。そして話し合ってひとつの妙案をまとめた。
 「承認はしないが学校のきまりを破っている罰として、パッチンをした人は一回につき一枚を担任に提出する。担任は保管しておいて、持たざる生徒に与える。そうすればバクチにはならない。委員は辞任しない。」
 みごとな妥協案だった。
 パッチン、すなわちメンコという遊びは、百人一首の札ほどの大きさの厚紙に絵が描かれているものをそれぞれ手に持ち、地面に置いた相手の札を、自分の札を相手の札の横に打ち付けて、裏返すかすくうかしたら、自分のものになる。上手な子は、たくさんの札を勝ち取って束にして持っていた。技とともに強い札を作ろうと子どもたちは研究し、ろうそくの蝋を札にしみこませて、力のある重いメンコをつくったりした。
 松組の子どもたちは全校朝会に出ようとしない。それが数回つづいた後の朝会の日、白鳥先生が教室へ行くと全員が静かに勉強していた。白鳥先生、笑いがこみ上げてくるが、わざと顔をしかめて、
 「何をしているんだ。勉強するなんて変じゃないか。朝会に出なかったことの帳消しにはならないぞ」
 富夫が発言。
 「おらたち朝会は行きたくないけん。行かねのもわるい気がして‥‥」
 「だれが言い出したんだ。勉強なんてずるいことを」
 富夫、明、護が相談して案を出し、みんなが賛成したのだという。それを聞いた白鳥先生、
 「わかった、本をしまえ。朝会には朝会の目的があるんだから、代わりにはならないぞ。しかし、気持ちは分かった。男も女も一緒になって考えたことはいいことだ。」
 そこで白鳥先生は、歌を歌おうと提案し、みんなで合唱をした。そして言った。
 「明日の自治会で、朝会に出られる方法を考えるんだ」
 子どもたちは一斉に外に飛び出していった。
 6月16日朝会、ベルがなる前に松組の子どもたちは全員体操場に整列していた。
 6月17日、クラス自治会で満場一致でパッチン停止が決まった。白鳥先生、職員会議で教師たちに報告。
 「禁止でなく停止と決まりました。バクチ説には承服できないが、六年松組だけ行なうことの社会的責任、教室は遊び場でないとする認識、衛生上の観点、とくに夏季は校庭で遊ぶほうが健康にいいと言うのです。生徒は校外でも無期限中止と決めました。」
 校長は苦虫をかみつぶしたような表情をしている。他の先生たちは無関心を装う。
 7月30日
 1学期終了。生徒に通信簿を渡し、父母への手紙を添える。
 「期間が短く、お子さんの実態がつかめないのと、今学期は学習に力をいれなかったことなどから、成績の評価はつけません。二学期は全員が“5”をとるような方法を、皆様と一緒に考えますのでお待ちください。夏休みは十分遊ばせて体力をつけさせてください」
 白鳥先生は宿題を出さなかった。もっぱら遊んで、真っ黒に日焼けしてくるように、と説いた。夏休みは8月1日から21日まで。帰っていく子どもたちに手を振って思う、「やめられないな」と。だが、白鳥先生には東京大学に進学するという考えがあった。
 8月10日から一週間、白鳥先生は生徒の家を訪ねた。どこでもどの子も勉強していた。親も訪問を喜んでくれて、宿題がないことで文句を言うものはいなかった。
 8月22日、二学期が始まる。子どもたちはよく日焼けしていた。勉強したノート、観察記録、押し花、図画工作の作品など、自分の考えでやったことを先生の机の上に出した。(つづく)